二:深爪


 砂浜の上に、ぼろぼろのスニーカーが転がっている夢を見た。夢の記憶はそれだけ。別に悪夢を見たわけではないはずなのに、目が覚めた時、私の体は汗ばんでいたし、浅く息が弾んでいた。ベッドの上で深呼吸する。不意に、腰の辺りに腕が回った。なるべく穏やかに、腕の主を見やる。ふたつある枕のうちの一つを占領するレオが、眠たげな眼差しで私を見上げている。
 レオと向き合ってみようと、向き合って生きていこうと、そう決めたはずだった。けれど実際はどうだ。負い目がある分、家の中で私の立場はほとんどない。不倫した負い目、そも瀬名先輩が好きだったにも関わらずレオとの結婚を選んだ負い目、終わりにしたいと願いながらもレオに引き留められたことを言い訳にして結婚生活を継続することにした身勝手も負い目だ。──なによりも、レオに引き留められたことに安堵した負い目を、私は抱えている。
 少しずつ、互いの部屋で二人で眠る回数が増えてきた。セックスはしたりしなかったり、レオが望むまま、だ。
「んー………いま、なんじだ? 」
「四時……半くらい」
 眠そうなレオの眼差しの邪魔をしないようにスマートフォンをベッドの陰で操作する。煌々と灯る画面は、四時三十六分を示している。
「ん、」
 レオの腕が、ちょうど枕に沿って私の首にぴったりとフィットしてしまうであろう場所に投げ出される。スマートフォンを定位置に置いて、自分の枕にそっと頭を沈めた。首の後ろの腕が僅かに動いて、熱い手のひらが肩のあたりに落ち着いた。ぼんやりした頭で、夢について想う。あれはきっと、今日レオが持ち帰ってきた旅行会社のパンフレットのせいだ。『旅行に行こう』と言ったレオがその後持ち帰ってきたいくつかのパンフレットの、様々な海と砂浜の写真。もしもそれらの印象で見た夢だとしたら、それはきっと私にとって、恐怖のイメージが見せた夢だろう。

*

 二人で過ごす夜が増えていく。カーテン越しに差し込む朝の陽光に目を細めながら、隣で眠る女を見た。こんな日々を重ねながら、それが当たり前のことになったらいい。過ぎた時間は戻らない。戻らない時間を想うより、これから作っていく時間の方が大切だ。おれは自分にそう言い聞かせながら、いつでもこいつの左手の薬指を見つめている。
 旅行会社のパンフレットのいくつかのドッグイヤー。彼女はそのページしか見なかった。おれが折ったドッグイヤーの全てを静かに捲る指先の、その爪がつやつやしていた。「どこか気になるとこあった? 」おれの問いかけに彼女が「ここかな」と指さしたのは、おれが一番気になった旅館だった。海のそばに建つ旅館。喧騒から離れた場所のその旅館なら、きっと夜になったら部屋からも波のさざめきが聴こえるだろう。おれが気になった場所を指差した彼女に抱いた感想は、『同じ場所を気に入ってくれて良かった』ではない。たぶん彼女は、おれが好きそうな場所を、確信を持って選んだに過ぎない。だから、というかそれが、そのことが何よりうれしい。おれと生きてみることを選んだ" 妻 "は、おれを理解している。経緯や感情はともかくとして、恋人を経てどうにか夫婦としてやってきたおれたちは、おれたちなりの形を見つけるしかない。彼女がおれを正確に理解しているということ、理解しようとしていること、それがおれたちの証明のひとつになる。
「……………おきてたの」
 枕に肘をついて眺める、彼女のその瞼が眩しそうに開いた。口から零れる掠れた声はまだ眠そうだ。まるでずっと前からそうしていたかのように、そっと彼女の額にかかる髪の毛を払った。手入れされた髪の毛先が指から逃げていく。随分慣れた腕枕は、もう痺れることはない。
「休みだろ? もう少し寝よう」
 時計を見ることもせずにそう言って、髪の毛を払った手で彼女の視界を塞いだ。一人で眠るベッドには、もう戻りたくないんだ。視界を塞いだ手で、掛け布団を手繰り寄せる。彼女の口元まで引き上げて、思わず詰めていた息を吐いた。吐いた息が彼女の髪の毛をほんのちょっとだけ揺らしたから、その物理的な距離に安堵して、おれも再びまぶたを落とした。





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