一:かんばせ


 何気なくリビングルームのカレンダーを見上げた。

 ソファの上でぼんやりとコーヒーを飲みながら、レオの雑談に相槌をうつ休日。ぜんぶが終わってしまってから、まだそんなに日々は過ぎていない時分。気持ちの整理をつけながら、ゆっくりと生活しているその中で、レオは躊躇わずに私に触れる。拒絶したい気持ちになることもある。けれど、たぶん私にはそんな権利はないんだろうとだけ、漠然と思う。つまるところ、私の心はまだ、ほんの少しでも瀬名先輩の元にある。それでもカレンダーを数えれば、容赦なく私が瀬名先輩と過ごした日々が過去のものになっていく。
「コーヒーのお代わり飲む?」
「ん、飲む」
 レオの手元のマグカップを指さして、できるだけ自然に微笑んでみた。空のマグカップを見下ろしてからカップを私に寄越してきたレオが、すぐに他の話題を口にした。
 私といる時に瀬名先輩の話をしないレオは、それでも屈託なく笑う。その笑顔に恐怖すら感じてしまうのは、私に後暗いことがあって、それをきちんと精算したとは言えないせいだろう。
「はい」
「ありがと! 」
 たかがコーヒー一杯でお礼を言うレオと向き合って生きてみることに決めた日から、自宅はこれまで以上に居心地が悪くなった。瀬名先輩が好きなのに、レオの変化によってもたらされた私の感情の変化。自分に都合のいい女だと、自分でも辟易する。自業自得だから、あれから── 凛月くんと話したあの時から、私はレオに涙を見せていない。
「なあ、……旅行行かないか」
 自分の分のマグカップを手にソファに戻った私に、レオが言う。私は曖昧に笑って、さほど悩まずに「いいよ」とだけ答えた。

*

 自分の左手薬指の指輪と、隣に座る妻の左手薬指の指輪を見比べた。おれの指輪はくすんでいるように見えて、妻の指輪はつやつやしているように見える。おれにとってはずっと何かの支えだった指輪であって、妻にとっては恐らくずっと邪魔だった指輪だ。
 湯気のたつマグカップに唇を寄せて、妻の淹れたコーヒーを一口飲み込んだ。そして、おれの誘いへの返事を、心の中で反芻した。
「なあ、……旅行行かないか」
「いいよ」
 おれとしては、わりと勇気を振り絞ったつもりだ。二人でやっていこうと、先に進んでみようと、そう決めたけど、進むのが早すぎたんじゃないかと不安にも駆られた。でも妻は── こいつは、頼りない眼差しに口元だけ微笑んで、悩む素振りも見せずに「いいよ」とだけ言った。おれも馬鹿じゃないから、わかってるつもりだ。同じ気持ちなわけじゃない、こいつはたぶん、おれへの複雑な感情ゆえに、おれの誘いに対して思考停止してる。それでもおれはそれを咎めたりはしない。そう決めている。歪でも、続ければ最後にはきっとそれらしいものが出来上がる。スランプの時の曲作りみたいに。
「どっか行きたいとこある? 」
「……どこ、かな。近くでも、遠くでも」
 言外に、おれの行きたい場所ならどこでもいい、と告げられているような気がする。── きっと、相手がセナだったら、笑顔で行きたい場所を口にするんだろう。もちろん、そんなことは口が裂けても言わないけど。
「じゃあさ、海の近くにしよう」
 夢ノ咲時代を彷彿とさせる場所で、あの頃の自分たちの気持ちを一つずつなぞってみよう、そんな気持ちを込めて提案した。
「うん」
 隣に座る妻が、感情のよくわからない笑顔で、簡潔な返事を寄越した。





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