LV:戻らない時間について


 今、おれが抱える喪失感は何によってもたらされたのか。明確におれを裏切ったセナを責めたい気持ちと、それでもおれに事実を伝えたセナのやるせなさやこれまでの孤独を思って責められない気持ちがまぜこぜになって、ソファの上で頭を抱えた。
 息を吐いて、吸い込む。不意に込み上げたものを無理やり飲み込んだら、わかりやすく酸っぱい味が口の中に広がって気分が悪くなった。セナは言った。『王さまの、何? あの子はずっと王さまの何だったの?』 たぶん、おれがずっと見ないようにして逃げ続けたことで、ふたりは進んだ道を戻れなかった。そう、おれはそんなふうに思えるほどには冷静だ。わかってる。おれがふたりを失わないためには、最終的にふたりを許すしかない。そして、このことでこれまでずっと傍にいたセナの全部が嘘だったことには、絶対にならないことも。

 ソファの上で携帯通信端末を手に取って、あいつの番号を呼び出した。いま伝えたいこと、いま伝えないといけないこと。おれはまた言葉にすることから逃げて、結局曲に全てを込めようとした。それを、あいつが受け取ってくれるのかも見ようとしないまま。
 息を吐いて、吸い込む。画面のボタンに触れて、電話をかける。伝えないといけないこと。今さらの言葉。『おまえのことが本当に必要だったのは、必要なのは、おれだった』 はずみで口から飛び出したその言葉だけを、言葉で、もっと早く、セナじゃなくあいつだけに伝えるべきだった。

*

 瀬名先輩の手はいつも通りひんやりとしてる。その指先が触れる度に、肌が跳ねる。けれど触れたからだはうっすらと汗ばんで熱い。呼吸する度揺れる肩、唾を飲む度に上下する喉仏、額に張り付いた色素の薄い前髪、私の体を包む腕。変わらないのに、変わらないはずなのに、今はこんなにかなしい。
「ん、う」
「………声、聞かせてくれないの? 」
 先輩の声が細く、さみしげに息遣いに乗った。
「………せんぱい」
 両手で先輩の顔を包んだ。ゆるく過ぎていくような時間の中で、私の両手で包まれた先輩の口元が小さく弧を描いて、薄い唇がそっと私の唇に重ねられた。しっとりした唇から滑らかに侵入してくる舌先が、唇の内側を舐めて、歯列を舐めて、私の舌先を捕らえる。冷たい舌先がぬるりと私の舌先を捕らえる度に、呼吸が苦しくなってしまう。それに気づいて顔を上げた先輩が、右手でそっと私の視界を塞いだ。──ああ、もう、なにも見せてくれないんですね。そう言ってしまいたいのに、唇はキスするためだけにあるみたいに、言葉を発してはくれなかった。
「……いれるね」
 心臓が大きく跳ねた。いつもならたっぷり時間を使って触れてくれたはずの指先は、もう私と一緒の場所にはいない。本当はずっと気づいていた。瀬名先輩と私のいる場所も、考えてることも、少しずつずれてきていたこと。私に一緒に地獄になんて言っておきながら、結局別々の地獄に突き落とす。
 避妊具のパッケージを開ける音がする。先輩が塞いだとおり、手が離れてもなお目を閉じたまま、まぶたの裏でそっと泣いた。ちゃんと最初に言わないといけなかった。最後には私を選ばないんだからと瀬名先輩に甘えすぎた。それでも、瀬名先輩が揺らぐ前に、私がレオとの結婚を選んだその理由を、きちんと口にしないといけなかったのだ。

*

 彼女の肌に触れた瞬間に、体の中で何かが弾けた。
「瀬名先輩」
「ん? 」
「………泉、さん」
「ん」
 ふふっと思わず唇から笑みがこぼれ落ちてしまった。繋がったままの体勢で、彼女の額に唇を落とした。何度触れたかわからない身体なのに、今になって何もわからないことに気がつく。彼女は確かに俺を求めてくれていた。王さまと結婚しながらも、だ。彼女の上で、ベッドに投げ出されたままの彼女の腕に手を伸ばす。俺より小さいその手を握って、指を絡めた。
「………、は、」
 ゆるく腰を引いてから、強く腰を押し付けた。ベッドがギシリと音を立てる。
「んっ、ぁ」
 王さまがたぶん酷く抱いたことがあるのだろう柔らかい身体が、俺の動きに合わせて反応してくれる。さっきほとんど無意識に彼女の視界を手で塞いでから、彼女は両目を閉じて辛そうな表情をしている。汗ばんだ二つの身体がしっとりと触れて、溶けてしまいそうな気持ちになる。溶け合ってしまえたらよかった。──彼女が、目を閉じたままでよかった。彼女の濡れた瞳に見つめられたら、俺はたぶん、泣いてしまう。
 言いたかった。言えなかった言葉を何度も何度も、頭の中でだけ唱える。『好きだよ』は何度か繰り返すうちに、『好きだったよ』に変わった。目の奥がツンとして、唇を引き結んで噛んだ。
「っ、あ、ん…っぅ」
 叩きつけるばかりの腰の奥で、粘着質な水音が絶え間なくくぐもっている。両膝を掴んでこれまでより大きく開いて、一番奥に、これまでよりもっと彼女の胎内の深いところに、ペニスを侵入させた。

 呼吸を整えながら、彼女の髪に触れる。肌に触れる柔らかいリネンは汗を含んで冷え、ふたり分の心臓の音と、寝室に立ち込める俺の香水や洗濯用洗剤や、石けんの香りを忘れないで欲しいとばかりに、腕枕の体勢で彼女を抱きしめる。混ざりあった二人の香りを肺いっぱいに吸って、息を吐く。
 黒々とした彼女の双眸が俺の瞳をとらえて、柔らかく細められた。
「これで、おわりですね」
 はっきりとした声で呟くように口にした彼女が、泣きそうに笑った。







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