LVI. 進む針について


 セナに掴みかかったあと、家に戻り意を決してあいつにかけたはずの電話を、おれはワンコールで切った。例えばセナから貰ってから使い続けてくたくたになったカバンだとか、セナにあげたカセットテープだとか、おれに組み敷かれながら恐らく早く終われと願っていたであろうあいつの表情だとか、感情を締め出したような眼差しだとか、そういうものに襲われて目の前が真っ暗になったからだ。
 衝動に身を任せて、部屋に飛び込んだ。トランクケースを引っ張り出して、カラーボックスに詰めてある衣服をぽいぽいと投げ込んだ。畳むこともせず、無理やりにトランクケースにロックを掛けて、そして、引き出しからパスポートを探し当て、それを掴んで家を出た。

 そしていま、かつてセナと二人で過ごしたフィレンツェの美しい街並みに夕日が沈んでいくのをただ見つめている。既に結論は出ているのに、それでも逃げ出したのはたぶん、子供じみた感情からだ。息を吸う。息を吐く。あいつは、おれを探してくれるだろうか。

*

 何かの予感がして、携帯通信端末の画面に明かりをともした。けれど待てども誰かからの連絡がくることはなく、代わりにマンションの前の植え込みから、凛月くんが静かに姿を現した。「もう、なるようにしかならないみたい」そう言った凛月くんが、顔を伏せた。
 瀬名先輩からの連絡を受けた時、私はちょうど大阪にいた。なんてことはない、ただの日帰り出張だ。カレンダーに書いた通りに、レオだけは知っていたはずの私の行き先。それでも、私がいないのを見計らったかのようなタイミングで、瀬名先輩は呆気なく引き金を引いた。

 出張から重い足取りで帰宅した。足どころか身体も重かったのは、疲れによるものだけではない。レオと顔を合わせるのが何よりも怖かった。それでも、逃げ出す資格はない。それがわかっているから、意を決して思い扉を引いた。暗闇と静寂だけが待つマンションの一室は、冷えきっていた。

*

 『恋とKnights のどちらを選ぶのか』そんな恐ろしい問いを自分に投げかける気はない。はっきりとどちらかを選ばないといけないような事は、おれの世界にはもう存在しない。けど、たぶんセナはその問いを振り払えなくなったんだろう。あのメッセージをおれに送り付けてきた心情を推測するなら、きっと、そういうことだろうと思う。
 結局は悪者になり切れないセナの中途半端さに安心した。安心したと同時に、憤りを感じた。その中途半端さが、おれとあいつとセナ自身に不毛な時間を費やさせ続けた。その誘いに乗ったあいつも、セナに抱かれてたんだろう身体を縮こまらせて泣きそうになりながら、それでもおれを突き飛ばさなかった。それでも、と思う。その中途半端さとか完璧じゃないところこそが、愛おしいのだ。

*

 瀬名先輩と別れてしまったという事実を受け止めるのに、自分でも驚くほど時間はかからなかった。たぶんもうずっと前から、瀬名先輩が少しずつ変わっていったところを目の当たりにしながら、無意識に覚悟をしていたんだと思う。
 次に私がしないといけない事を、一つずつ数える。瀬名先輩との終わり、そうしたら、レオともきちんと終わりにしないといけない。裏切ってきたことは、動かしようもなく事実なのだ。

 誰もいないだだっ広いマンションに帰宅して、瀬名先輩の指先を忘れるために熱いシャワーを浴びた。長い長い恋が終わったはずなのに、涙は出てこない。ただ、心臓だけがバクバクと音を立てて、悲鳴をあげている。バスルームから出て、タオルを身体に巻き付けただけの状態で、携帯通信端末を手に取った。息を吸う。息を吐く。電話の相手は、レオだけだ。

*

 ちょうど手元の携帯通信端末があいつからの着信を告げたのは、おれがフィレンツェ空港で発着する飛行機を眺めているときだった。日本を出国する時に借りた携帯通信端末は使い方が未だよくわからないところもあるけど、電話に出ることはできる。深呼吸して、親指で通話ボタンに触れた。
「………Ciao 」
『…………やっぱり、フィレンツェにいたんだ』
「ん」
 電話の向こうの声は震えている。
『話があるの』
「………ん、いま言って」
『………………私、瀬名先輩が好きだったよ。浮気してたんだよ』
「知ってる。セナから聞いた」
『ぜんぶ、ちゃんと決着をつけたい』
「………セナとは? 」
『………終わったよ。ぜんぶ。おわっちゃった』
 震える声に、切なさがたっぷり込められた。こいつにこんな声を出させることができるセナが、心底羨ましくなった。
「………それで? 」
『レオとも、終わりにしないといけない』
 結論を急ぎすぎてないか? と思ったけど、言わなかった。きっとおれの知らないところで、こいつはずっと考えていたはずだ。おれの知るこいつは、たぶん、ずっとそういう人間だ。
「……終わりにする前に、ちゃんと聞いてほしいことがある」
 いま伝えたいこと、いま伝えないといけないこと。ずっと、言えなかったこと。それを全部、聞いて欲しい。

*

 電話の向こうのレオの声が、段々と固さを持ち始めた。ぜんぶの間違いをきれいにするためには、私は糾弾されるべきだと思う。だからこそ、瀬名先輩を解放した。そして、レオとも。それなのに、耳に届いたレオのこえは、固さが混じりながらもひたすらに優しかった。
『おまえのことが本当に必要だったのは、必要なのは、おれだよ』
「………でも」
『これからすぐこっちを発つから、帰ったら話そう。ふたりでちゃんと、向き合いたい』
 結婚してからゆっくりと私の心を揺らし始めたレオが、不倫騒ぎで傾いだ私の心をそっと支えたレオが、はっきりと、温かみのある声でそう告げて、そうして私の返事を待たずに通話が切れた。

*

「……うっちゅ〜」
 レコーディングブースのソファに座ってお葬式みたいな表情で俯く四人が、弾かれたようにおれを見上げた。
「レコーディング、早くしないとリリース間に合わないぞ〜」
 四人ともが、信じられないものを見るようにおれを、そして、俺の後ろに連れてきた"妻"を見つめる。
「おれのKnights! その歌声でおれの曲を世界に響かせてくれ! 」
 後ろ手で"妻" の手を握った。まだ、握り返す力は弱い。それでも、おれと話すために電話を掛けてきてくれた、フィレンツェにいると察してくれてた、帰国したおれを迎えにきてくれたこいつを、おれは手放さないことを決めた。作った曲を贈った。まだ心の距離があっても、それでも向き合って生きてみようと、そう決めた。
「………失踪しといてよく言うよねぇ」
 セナがゆっくりと立ち上がって、楽譜を手にブースに入ろうと足を進める。すれ違ったセナの目じりに、うっすらと涙が見えた。
「セナ、おれは、もう何も手放さない。セナのことも」
 目だけでこっちを、たぶんをおれと、以前浮気させた女を見て、そして静かに、ほほ笑んだ。
「………ありがと、れおくん」





About the time to don't go back.
戻らない時間について







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