LIV:音について


 掴んだセナの胸ぐらと、揺らいで諦めた気配の強い目の色。ピアノの前からみんなのいるレコーディングブースに向かう足は、おれの意思通りには動かなかった。立ち止まってしまいたかったのに、足はセナの元へと急いだ。何をすればいいのか、何を言えばいいのかもわからないまま、携帯通信端末を握りしめた。後ろからリッツがなにかを言っていた。何度か呼びかけられた。それでも足は止まらなかったし、おれは後ろを振り向くこともできなかった。
 おれが部屋に入ってすぐ、セナと目が合った。これまでにも何度も見たあのきれいな色の瞳に、照明の明かりがぼんやりと映り込んでいた。何度も何度も見つめたことのある瞳のはずなのに、その時になってようやく、おれはセナの眼差しの気配に気づいた。気配には、諦めが色濃く滲んでいた。

「王さま」
 リッツがおれの腕を引く。おれはいま一体どんな表情をしてるのか。聞こうとして、やめた。
「………リッツは、」
「うん、……知ってた」
 おれの腕を引きながら、リッツが静かに言う。半地下の駐車場に声が響く。背後から聞こえた靴の音に、思わず振り向いた。
「ナル」
「………………王さま、どうして、あの子の手を離さないの」
 泣きそうな目じりと、歪んだ口元がおれを責めているのだけがわかる。間髪入れずに「ナッちゃんはセッちゃんに感情移入しすぎだよ」と言い放ったリッツの声が、冷たく低く、コンクリートに反響した。俯いたナルが、両手を胸の辺りで組んで握った。前に『椚先生に、ちゃんとふられちゃった』と言ったときとおんなじように。

*

「会いたいです」
 携帯通信端末を通して、向こう側の人物にそう言った。レオと瀬名先輩との間で起きたことを私に告げた人は、気配だけで私の決断を促していた。「もう、なるようにしかならないみたい」そう自嘲気味に言って目を伏せたその人──凛月くんは、マンションの前で私を待ち構えて、そうして私を置き去りにして去っていった。
『………うん、おいで』
 瀬名先輩は、それだけ言った。

 久しぶりに足を踏み入れた瀬名先輩のマンションは、相変わらずとても静かだ。人の気配が薄いように見えて、至る所に瀬名先輩の痕跡が残る。生活の痕跡ではなく、瀬名先輩が自分のために悩んで揃えたんだとはっきりわかる、家具や小物のラインナップがそう感じさせるんだろう。
「何か飲む?」
「………紅茶を」
「あったかいのねぇ」
 口調はいつも通りなのに、瀬名先輩は私の方を見ない。木製のテーブルセットのチェアのひとつに腰を下ろして、辺りをぐるりと見渡した。
「この部屋、瀬名先輩らしい」
「そりゃそうでしょ。俺の部屋なんだから」
 水を入れた電気ケトルの中から、低く沸騰が始まる音がする。瀬名先輩はキッチンで、ティーポットに缶から茶葉を移している。瀬名先輩はティーパックなんてやっぱり使わない。
「私、ずっと何を見てたのかな」
 心の中で思っただけのはずだったのに、どうやら小さく口からこぼれ出ていたらしい。その証拠に、瀬名先輩が痛む素振りの表情で、こちらをちらと見やった。

 二人ともが触れられずにいる話題について、唇の中で何度か反芻した。──夢を見た。夢は、覚めてしまう。

「………レオが、帰ってきません」
「……………そう」
「先輩……! 」
 カップがテーブルに置かれた。湯気が立って、柔らかな香りが立ち込める。
「俺、アンタのことが好きだよ」
 私の向かい側の椅子を引いた瀬名先輩が、ゆっくりとした動作で腰を下ろす。
「……………でも、それでも、先輩は」
「………俺は、Knightsしか選べない」

 わかっていたはずの言葉はそれでもあまりにも残酷だったのに、私はその時にほんの少し安堵した。ようやく、罰を受ける時がきたのだ。視線を、カップの中に向けた。カップに添えた指のせいで、その水面が揺れている。

*

 レコーディングの合間に、楽譜を乱雑に抱えて部屋を出ていく背中を見送った。鞄から出てきた避妊具のことには触れずに顔を上げた王さまの眼差しを思い浮かべて、それから一度ぎゅっと目を瞑った。革張りのソファの上に置いた鞄から、携帯通信端末を取り出した。

 隠したまま彼女を抱きしめ続けるか、隠したまま彼女の手を離すか。たぶん、俺が選ぶべきは後者だ。そのはずだったのに、俺を苛むのは王さまとKnightsへの裏切りという事実だ。既に勘づいてるメンバーもいる、かと言ってなかったことにはできない。なかったことのように振る舞うのも、なかったことにするのも、俺自身と彼女の気持ちを踏みにじるものだとわかっている。
 彼女のために買った腕時計をダストボックスに投げ入れたあの瞬間、手から離れていく重さが、吸い込まれていったリボンの残像が、頭にこびりついて離れない。恋をした。恋をしていたはずだった。それなのに、ダストボックスの中で音を立てて静かになったそれを想って、瞬間、安心した。

 携帯通信端末でメッセージアプリを呼び出して、王さまとの会話を呼び出した。メッセージを打ち込む。『あの子を抱いたのは俺だよ』俺が選びたいものと守らないといけないものを、ゆっくりと数える。王さまが彼女を守ろうと決めた瞬間に立ち会ってしまったことを、心底悔いている。俺には絶対に出来ないことだ。できたらよかった。夢ノ咲で、あの場所で、ちゃんと彼女に伝えればよかった。最初から、俺は自分だけを守っていた。

 親指が送信ボタンの上で震える。押してしまえば、きっと全部変わってしまう。あの時守れなかった王さまを、今度は俺が地獄に突き落とす。許されなくてもいい。ただ自分勝手に、俺が断罪されたいだけの告白だ。いつか彼女に言ったことがある。『一緒に地獄に着いてきて』彼女は小さく頷いた。隠さずに、そして彼女の手を離す。弧を描いて俺の手を離れた腕時計は、買った時には確かに、笑顔ではにかんで、いそいそと身につける彼女の姿を脳裏に運んだはずだった。親指が、送信ボタンに触れた。







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