LI:カーテンの一張り


 自分でも意外なほどの滑らかさで楽譜に散らばせた音符を、ため息を吐いて見下ろした。数十枚はあろうかという楽譜は、最早順番通りには並んでいない。思いつく度に山の下から引っ張り出して付け足して赤線を引いて黒いモジャモジャを量産した。一体どれがなんの曲なのか。もしかしたら曲を作るより長い時間を、楽譜の入れ替えに費やさないといけないかもしれない。

 地方の学祭での講演会は、たぶん散々だった。たぶんっていうのは、あんまり記憶にないから。Knightsメンバーとの出会いとかケンカとかグループの危機とか、最初はそんなことを話した記憶はある。でも、集中できなかった。頭の中に浮かぶのは、カバンから出てきた避妊具のことばかり。
 おれの知らないあいつのこと。むしろ、おれが知ってることなんて数えるくらいしかない。どうすればいいのかはわからないのに、おれは今日も、今日までずっと、やっぱり結婚指輪を外せないでいる。自分の本心とか、自分がどうしたいのかとか、そういうことを考えるのはずっと苦手なままだ。変わらないものとわかるもの、わかってきたもの。───指輪を、外さないということ。そのためにあいつと避妊具について話すべきなのか、それとも見なかったことにするべきなのか。あまりにもあいつのことを知らなすぎるおれでも、そこだけは間違えないように、顔を上げる。

 ふと、周りを見渡した。これから始める途方もない作業に反して、妙に浮かれた気分だ。いつの間にか明るくなっている部屋の中で、左手に視線を落とした。曲作りに没頭するおれを放っておきながら、そっと扉を開けて電気を点けたであろうあいつの顔を思い浮かべる。いつか、あいつも指輪をしてくれるだろうか。自分の指輪を見下ろしながら、願うような気持ちで息を吐く。

*

 誰も知らない本当の話。めまぐるしく穏やかに変化していく季節の中で、ずっと変わらなかったもの。
「お姉様は、どうしてレオさんとご結婚したのですか」
 自宅マンションのリビングで、司くんが悲痛に眉根を寄せて声を絞り出した。みんなでいる時には変わらずにレオをリーダーと呼ぶのに、あの頃のような声の響きは全く感じられない。
「……どうしてかな」
 思いのほかか細くフローリングに落ちた声に、司くんが大きく息を吐いた。自分の唇から零れた言葉だというのに、レオと結婚した理由を改めて自分に問う言葉なのか、そんな質問をした理由を問う言葉なのか、よくわからない。
「みなさんは、いつまで私を純粋でかわいい末っ子だと思っているのでしょう」
 これでも、家のために様々なことを学び身に付けてきたんですよ、と口にした司くんの眉は、呆れたような形になっている。
「うん、……たぶん、私も含めてみんなが、司くんには知られたくないって思ってる」
 あの夜、瀬名先輩がベッドの中で言った言葉が心臓を締め付ける。『あんたは、本当はどう思ってて、本当はどうしたいんだろうねえ? 』、確かに瀬名先輩は言った。
「……正直な話をすると、お姉様がレオさんと結婚されたと聞いた時、皆さんホッとしていたんです」
「……知ってる。………レオが一人じゃなくなるのは、みんながずっと願ってたことだもん」
 汗をかいたグラスの中で、アイスコーヒーの水面が揺れた。司くんがグラスを手に取って、口の中を濡らした。
「結婚したからと言っても、一人ではなくなるわけではないのでしょう。……それでも、です」
 随分と大人になってしまった司くんが、もう何度目か分からないため息を吐いて、真っ直ぐに私を見つめる。不思議と、不快な気持ちにはならなかった。嵐のように過剰な期待を感じさせるでもなく、凛月くんのように私を責める気配もない、とてもフラットで真摯な眼差し。
「私は、なんでもできたの」
 今度ははっきりと唇に載った言葉が、真っ直ぐに司くんに届いた。その証拠に、司くんは伺う表情で私を見ている。一体なんの話ですか? と言いたげな司くんは、すっかり大人の男の人になってしまった出で立ちの中でも私が知る遠慮のない率直さで、「何をですか? 」と瞬時に問うた。

*

「すごいです」という感嘆の声。
「頑張ってください」という緊張の声。
「瀬名先輩」という機嫌のいい声。
 他人に媚を売る響きのない、フラットな声音。他の女たちと一体どこが違うんだろうねえ、と彼女の頬の肉を引っ張った頃に気づいたのは、彼女の愚直さと、公平さと、驚くべきほどの素直さだった。
 その性質に俺がどれだけ安心したか、きっとあんたは知らないでしょ。自分を過度によく見せようと繕ってばかりの芸能界から、謀略の香りが立ち込める学院へ。その行ったりきたりで知らずのうちにすり減っていく心を、自分がどれだけ助けたか、知らないのはあんただけだよ。俺たちは魅せることが仕事。望むメロディを、望むビジュアルと望む態度で紡いで贈る偶像。俺たちが、何者でもなくひたむきにアイドルになろうと努力できるのは、あんたのキラキラ瞬く瞳に俺たちが映っていたから。

 目に見えて狼狽えていたのに、はっきりと「これからも一緒にいたい」という答えを口にした王さまを脳裏に、さざめく気持ちを落ち着かせようと入ったショップ。そこでうっかり買ってしまったジュエリーボックスをテーブルに置いたまま、思い出の中の彼女に微笑んだ。指輪なんて陳腐なものは買わない。俺はただ、あんたと同じ時間を一緒に過ごしたかっただけ。指先でリボンを解いて、ボックスの蓋を開けた。中には、シンプルな腕時計が一つ、電気の明かりを反射している。どんな服にでも、プライベートでも仕事でも嫌味なくさりげなく身につけられるだろうデザイン。静かに蓋を閉めた。箱を手に取った。

 ねえ、俺はね、あんたが好きだよ。突然恋に落ちたわけじゃない。そんなドラマみたいなことは起きない。あの頃からずっと、俺はあんたに恋をしてる。絶え間なく優しく鼓膜を揺らす、波の音のように。
 そうして俺は、一度瞼を強く瞑ってから、手の中の箱を、ダストボックスに投げ入れた。
 恋を、していたはずだった。






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