XLV:鎖について


 凛月先輩が私の元を訪れたのは、少し熱の気配を帯びてきた夜風が柔らかく通り過ぎる時間のことでした。空には星が瞬いていました。私はパーティー帰りの車の窓から、凛月先輩の姿を探してキョロキョロと辺りを見回したのを覚えています。

 パーティーの終盤、会場であるホテルのスタッフがそっと私の元にやってきて、驚くべきほどの滑らかさで私にそっと耳打ちしたのです。『朱桜様、ご自宅に友人がいらしているとの伝言を賜っております』。パーティーの華やかな喧騒を邪魔せず、それでも確かに耳に届く、適切な声音と声量でした。しかし、私はこんな時間に自宅を訪ねてくる友人に心当たりはありません。いえ、友人はいますが、彼らは皆、事前に連絡をくれるのです。それでも何故だか妙な胸騒ぎを覚えて、私はシャンパングラスをテーブルの上に静かに置いたあと、足早に、教えられた通りの穏やかな笑みを決して崩さぬよう、ロビーへ出ました。
 目が合った老齢のスタッフの一人が、会場に入る前にカウンターに預けておいた携帯通信端末を無言で、恭しく私に差し出します。お礼を言ってから受け取り、電源を入れました。そこには凛月先輩からのメッセージの二通を知らせるマークがついています。メッセージの一つ目は『今日ス〜ちゃんちに行きます』、そして二つ目は『家の近くで待ってる』。その簡潔さに、私は切実な気配を感じたのです。

*

 王さまの卒業は、そのままKnightsの次のリーダーへの代替わりを意味した。学院を卒業した王さまを一時は「月ぴ〜」と呼ぼうと試みたものの、なかなか自分の中で定着せず、今に至る。そんなことをぼんやりと思いながら、すっきりとまとめられた室内で、高価そうなスーツを着替えに行ったス〜ちゃんを待つ。目の前のカップに注がれた紅茶を一口飲んで、学院時代の部活動を思い出した。

「お待たせしました」
 着替えても尚育ちの良さを感じさせる、堅っ苦しい深い色のパンツにチェック柄の襟付きシャツを着たス〜ちゃんが、ほんの少しだけ怪訝な面持ちで向かい合わせの椅子に腰を下ろした。
「じゃあ、始めようかな。……これはね、俺の懺悔なんだよ」
 カップをソーサーの上に置いた。小さな高い音がして、水面が揺れた。視線を上げたら、視界の中でス〜ちゃんが居住まいを正した。
「結論から言うね。……前に、セッちゃんの不倫騒ぎがあったでしょ」
 ス〜ちゃんが切なさを込めて眉根を寄せる。
「あれは酷かったです。あの二人がそんなことをするはずがないのに」
「あれをマスコミにリークしたのはね、俺なんだよ」
 みるみるうちに顔色が変わっていくス〜ちゃんを眺めながら、心の底から「素直だな」と思う。Knightsの末っ子。リーダーを経て、俺とナッちゃんの卒業を期に夢ノ咲でのKnightsは解散。ス〜ちゃんの卒業を待って始まったKnightsの新たな船出。有名大学の経済学部に進み、学業とアイドル活動を両立させてきた。そのくせに変にすれたところを感じさせないのは、やはり育ちが良いからだろう。
「……理由を、伺ってもよろしいですか」
 口元の笑みを消し、目を見開いて、それからゆっくりと息を吐いて顔を上げたス〜ちゃんの表情は、嘘やごまかしを許さない強さを持っていた。
「現実を知って欲しかった」
 ス〜ちゃんが、手元のグラスに水を注いで、それをひとくち口に含んでから俯いた。喉仏がゆっくりと上下する。
「瀬名先輩の横恋慕に対して現実を突きつけることが目的だというのなら、私も納得できます。なぜお姉様を巻き込んだのですか」
「…………え?」
 ス〜ちゃんの、グラスを包む手が小さく震えている。俺はといえば、ス〜ちゃんがセッちゃんの気持ちに気づいていたということに気を取られて、思わず間抜けな声を出した。きっと表情も間抜けなはずだ。
「……わかりますよ、そのくらい。瀬名先輩の分かりづらさもわかり易さも、よく知っているつもりです」
 呆れたように顔をそむけたス〜ちゃんが、そこまで言って口を噤む。視線だけをこっちに向けて続きを促すから、思わず目を逸らした。
「セッちゃんが風邪で寝込んだ時、みんなで集まる仕事は先延ばしになったでしょ」
 返事がないのを肯定と受け取って続ける。
「ナッちゃんから、" あの子にお見舞いを頼んだの " って連絡が来た。……だから、カメラを持ってセッちゃんのマンションの前で張り込んだ」
 その後のことは、言わなくても伝わるんだろう。ス〜ちゃんは怖い顔で俯いた。
「……それは、私の問への答えではありません」
 『セッちゃんと、ス〜ちゃんが懐いてる " お姉様 " が不倫してるからだよ』、そう言えたら、どんなにか楽だろう。けど、たぶんその言葉は、口から出た瞬間は楽だと感じても、もっと大きな、とてつもない何かを連れてきてしまう。その重さを想像するだけで喉が狭くなる感覚がしてしまう俺は、結局何も言えなくなって、椅子を立った。
「……ごめんね。まだ、人に話すのは早かったかもしれない」
 部屋を出る。とうとうス〜ちゃんは、俺を引き留めたりはしなかった。けれどはっきり、「お姉様の方が瀬名先輩より失うものが多く、世間の当たりが強かったとは思いませんでしたか」と呟くように言った。真っ直ぐな責める眼差しと、断崖で背中に手を当てられるようなその呟きが、脳裏にこびりついて離れてくれない。




次話
Main content




×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -