XXXVI:薄氷について


 寒いのに、汗が止まらない。思い返せば夜通し海辺で曲を作っていたのだから、時間差とはいえ体調を崩すのはごく当然のことのようにも思った。けれど同時に、随分前のことなのに、とも思う。
 Tシャツはじっとりと重く、髪が汗で額に張り付いて気持ちが悪い。頭がぼんやりして、寒くて、暑くて、布団を被って携帯通信端末であいつとのメッセージを呼び出した。今朝送ったメッセージには、依然として既読を知らせるマークはついていない。『わるい かぜひあたから帰りなにか買ってきて』一度読み返してみて、誤字に気付く。気づいても直す気力が湧かなくて、指先で送信ボタンに触れた。端末を枕元に放り投げて、布団を被り直す。不意に襲ってきた吐き気に、よろよろとベッドから下りてトイレに入った。ひとしきり吐いて、口の中の気持ち悪さにうがいでもしたいのに体は既に重く、ずるずると床に座り込んだ。床の冷たさが妙に気持ちいい。背中を扉に預けて、息を吐いた。あいつはメッセージを読んでくれただろうか。仕事中だから、まだ読んでないかもしれない。読んだらすぐに帰ってきてくれるだろうか。何をして欲しいというわけでもなく、ただ、家にいてくれるだけでいい。弱気になりながらもようやっと立ち上がって、洗面台に向かう。途中で玄関の扉が視界に入った。運命的に、今この瞬間に扉が開く幻を見た気がした。


*


 昼休みになって初めて、自分が携帯通信端末を自宅に忘れてきたことに気がついた。思い返せば今朝から、個人用の端末には構ってなかった気がする。通勤電車の中でも、ずっと社用の携帯通信端末を見つめ続けていた。洪水のように流れていく、自社や他社からの業務連絡。所属タレントから届くいくつかのメッセージに留守電。それらに返信しながら、カレンダーアプリに予定を入れていく作業。出社してしまえばそんな些細なことに割く時間はなくなるから、ほとんどルーティンのようなものだ。なんとなく、何かを忘れたような気がしていたのは、これだったんだろう、と思う。
 ため息をついて、オフィスの窓の向こうに視線をやった。たった一日、携帯通信端末が手元にないくらいで困るようなことはない。急を要する連絡がくるわけでも、そもそも使う機会の高さで言うなら、社用のそれに比べたらあってもなくても同じようなものだ。
 何かを忘れたような気持ちが、ぼんやりと付き纏う。そしてようやく、その気持ちが個人用の携帯通信端末を自宅に忘れたことがもたらしたものではなく、恐らくはレオからの、朝のメッセージを読んでいなかったことに起因することに気がついた。


*


 " 人気売れっ子作曲家 " の人気に翳りが出ても尚、王様は売れっ子ではあった。王様が曲を提供しているのはKnightsだけではない。昔は自分の書きたい曲を作っていた印象の方が強いけど、夢ノ咲を卒業してフィレンツェに渡り、当たり前にそこにある、たくさんのうつくしいものに触れた王様は、望まれるものを生み出すという、言わば商業的な感性をも身につけた。共同生活の中でゆっくりと、諦観ではなく恐らくポジティブにその感性を捉え続けた王様の瞳は、星が瞬くように輝いていた。

 Knightsメンバーが夫々で曲を理解しようと努めている中でも、当然ながらほかの仕事は山積だ。なるくんはブライダル雑誌の特集ページに起用され、くまくんは信じられないことにドラマ出演する。かさくんは実家を継ぐ準備とばかりに、暇さえあれば取引先への挨拶やパーティーに呼び出されている。俺自身も海外ジュエリーブランドのレセプションパーティーに招待されている。インターネットでそのブランドのラインナップを一通り眺めてから、黒いタイトなニットにブラウンのコートを羽織った。目星をつけたアイテムのいくつかを購入しに行くために、姿見で服装のチェックをする。真っ直ぐに見つめる鏡の向こうで、男の表情がプライベートから仕事に変わったのを、他人事のように思う。


次話
Main content




×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -