XXXIV:蜃気楼について



 何かが劇的に変わった訳ではない。ただいつも通りの自分の、その延長線上にあったものと、過去の自分を思って少し恥ずかしくなる。何が自分を頑なにさせたのか、その理由を掴みきれずに、それでも、結婚してから初めて囲んだ朝食のテーブルは、確かに何かが変わる予感を連れてきた。
 強ばった表情でフォークの先でパンケーキをつついていたあいつの、その指先を思い出す。きれいに切りそろえられた爪と、そしてマグカップを持ち上げた左手の、何も無い薬指。おれも相当頑なで頑固だと思う。あいつも十分頑なで頑固だ。海辺でまっさらな五線譜に向き合う作業は、きっと自分と向き合う作業でもあった。その作業を経て、ようやく今に至る。
 手帳の裏表紙内側のポケットに挟んでいる、少しよれた紙を丁寧に取り出して広げた。「ありがとう」。あいつからのたったそれだけの手紙。それを何度も何度も読み返す。不意に、瞬間的に、スタジオにノートパソコンを持ってきた時のあいつの表情が、いつか見たセナの表情と重なって、頭を振った。理由はわからない。それなのに、あいつがセナを見る眼差しも、セナがあいつを見る眼差しも、おれが知る限り、他の誰かに向けられていた記憶がない。


*


 たすけて。それだけをメッセージアプリに打ち込んで、すぐに削除した。一体何から助けてもらいたいのだろう。いつ変化があったのかはよくわからない。けれど、レオは態度を軟化させ、よく家にいるようになって、笑うようになった。笑うよう努めている、という表現の方が正しいかもしれない。じっと気配を伺う日々の中で、私はレオの変化に気づいた。
 自室で、ベッドの縁に座って握りしめていた携帯通信端末を横に置き、息を吐いた。ふと、棚の上に鎮座する、青みがかったピンクのネイルに目を留めた。黒いフタ、透明のボトルに白いブランドロゴ。お気に入りというよりは、お守りに近い。特にブランド物には興味がないけど、そのネイルは瀬名先輩がプレゼントにくれた物だった。
 瀬名先輩のチョイスは、いつでも私への気遣いを感じさせる。負担に思う品物でもなく、お返しに悩む金額でもなく、ブランドには興味がなくてもテンションの上がるギフトラッピング。すこしぶっきらぼうに「似合うと思うよ」と目を逸らして笑った瀬名先輩を思い出すだけで、心臓が痛くなる。立ち上がってそのネイルを手に取り、ローテーブルの前に座った。フタを開けて、左手の爪にゆっくりと載せていく。自分では選ばなかったであろうカラーはつやつやしていて、ゆっくりと波のように、泣きたい気持ちが引いていく。
 結局レオが変わったところで、私が変わることはできないんだと思う。嵐の「恋に夢を見てる」という言葉が脳裏に浮かんだ。私は、レオとの夢を見たことはない。ただ、何かの延長線上にあって、通過点として、隣にいることを選んだ。私が恋に夢を見る瞬間をもたらすのは、どこまで行っても瀬名先輩なのだと思う。そのことが、こんなにも辛い。


*


 時々、本当にごくたまに、夢想することがある。夕方の夢ノ咲、教室を染める橙の中で、彼女の手首を握って、引き寄せる。驚いて反射的に俺の体を押し戻そうとする彼女の額にキスをして、そして「好きだよ」と言う。きっと俺の声は小さくて小さくて、窓の外の喧騒にかき消されてしまう。それでも彼女の耳には確かに届いて、彼女は耳の先を赤くして、俯いて、そして、「私も好きです」とか細い返事をする。そんなことを想像する。有り得なかったのかもしれないし、確かに、どこかで間違えなければ手に入ったかもしれない光景。
 つまるところ、付き合うことを決めた王さまと彼女のことも、結婚すると決めた王さまと彼女のことも、俺は何ひとつとして知らないままだ。携帯通信端末を取り出して、メッセージアプリで彼女とのやり取りを呼び出した。簡潔な一文を打ち込んで、読み返すこともせずに送信ボタンを押した。「二人で会おう」。彼女に会えば、彼女に触れれば、きっと彼女の愛情が向けられているのは俺だと実感出来る。本当は奪ってしまいたい。でも、そんなことを出来るはずがない。俺は、王さまから何ひとつとして、奪えない。事実として、奪えるはずがないのだ。


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