XXXIII:混沌について



 さほど過去を引きずらない人間だと思われることが多い。色々なものを高校時代で捨てて、諦めて、再構築したような気がする。前に進むためにはそれが必要だったからだ。

 俺は、顔を上げて、自分の足で前に進むことを知っている。


*


 鼻腔をくすぐる香ばしい匂いに、うっすらと瞼を持ち上げた。カーテンを引いた部屋の中は薄ぼんやりと、やわらかい光に満ちている。胸に抱いていた携帯通信端末はお腹のあたりに移動していた。脳裏に過ぎることは多く、そのどれもが自業自得の私を追い詰めるにも関わらず、どうやらいつの間にか寝入ってしまったらしい。
 ベッドの上に起き上がり、携帯通信端末を手に取って画面の照明をつけた。メッセージアプリが新着のメッセージを告げていた。そこには、夜通し心待ちにしていた人物の名前が表示されている。急いでメッセージアプリを起動した。そこには確かに、瀬名先輩からの「二人で会おう」というメッセージが届いていた。

 肩からカーディガンを羽織って、そっと伺うように部屋の扉から顔を出す。バターの香りが濃くなった。ゆっくりと、まるで泥棒のようにリビングへと足を進める。リビングに入ってすぐのキッチンで、レオがタブレット端末を操作しながら、時々不安げな表情でフライパンを見つめていた。
「……何してるの?」
「ああ、……おはよう」
 一度肩を震わせたレオが、少し目を泳がせてから、困ったように笑って朝の挨拶をしてきた。キッチンに立つレオを最後に見たのはいつだろうと思う。冷蔵庫から飲み物を取ったり、どこかで買ってきたお惣菜をレンジで温めているところはごくたまに見た気がする。何しろ私たちは結婚してから、自宅で、二人きりで食事を摂ったことがないのだ。互いが互いに不干渉であり、私は勝手に好きなものを作って食べるし、レオの分を残すことは無い。……最初は残していたけれど、手をつけられることなく、手ずから捨てる日々で心はすっかり折れた。レオはほとんど外で食べているか、買ってきたものを自室で食べている。
 そのレオが、何故かいまキッチンで、コンロに向かっている。
「……座って待ってて!朝ごはん作ってるから」
 レオは私の目を見ないでそう言ってから、感情を隠すように、フライ返しを右手に持ってフライパンの上のパンケーキと格闘を始めた。涙が出そうになって、小さく「うん」と答えて洗面台に駆け込んだ。

 ねえ、どうしてレオは、私と結婚したの?


*


 ボイストレーニングと振付師との連絡、解釈について認識合わせの繰り返しの日々。王さまの曲を文字通りKnightsのものにするための途方のない作業が始まった。まだまだ先になるであろうゴールでも、ゴールが明確だから苦にはならない。
 不倫騒動が収束されるあたりでリリースされたアルバムは、これまでのCDよりも多く売れた。インターネットで管理している銀行の残高の数字を指をなぞって、その数字の跳ね上がり方に唇を噛んだ日のことを思い出す。歓喜の類の感情は一切浮かばなかった。不倫騒動なんて一切関係なかった時期にレコーディングをした曲なのに、インターネット上では「五人の絆を感じた」だの「シングルの時とは声の深みが違う」だのと知ったようなコメントが流れて行った。所詮世間はそんなものだ。だから俺は、" 誰か " の理想の" 瀬名泉 " を守り続けなくてはいけない。そのはずだ。
 デモ音源を入れた小型の音楽再生機器を操作して、イヤホンから繰り返し流れ続ける曲を、自分が歌っている場面を想像して聴き続ける。ボイストレーニングからの帰路、欲しかったものはささやかなものだったはずなのに、今自分がどこにいるのか、どこまで来てしまったのか、この先に何が待ち構えているのか、考えたくないことを考え始めて、それでも瞬間的な衝動は、彼女に向けられてしまう。


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