XXXII:宝石について



 足取りがふわふわしている感覚に陥る。すぐに帰りたいような、頑なに帰りたくないような、とても不思議で、とても嫌な感覚だ。

 真新しい白いスニーカーがコンクリートを軽やかに蹴る。通販サイトを何度も眺めて、一つ一つのアイテムは見れば見るほど俺を混乱させた。結局買ったのはトータルコーディネートされた服の数パターン。その内の一パターンである今日の服装を、ナルは「似合うじゃない」と喜び、スオ〜は「きちんとした人物に見えますね」となかなか辛辣に笑みを浮かべ、リッツは「どんな心境の変化?」と訝しげに口にした。セナだけはとても聡く、「なぁにい?そのマネキン買いみたいな服!似合わないこともないけど、もうちょっと他にあったでしょ」と苦言を呈した。

 セナの家から車を運転して自宅近くのコンビニに寄った。水のペットボトルを二本買って、マンションの地下の駐車場に車を滑り込ませる。ふと、今朝リビングで視界に入った壁掛けのカレンダーを思い出す。これまでは不在の予定だけを、端的に書き込んでいたあいつ。それが今朝、今日の日付から平日の五日間に直線が引かれ、その下には『休暇』と書かれていたのだ。
 早く曲をみんなに聴かせたいと浮き足立ってノートパソコンを忘れたことに気づいた時、その書き込みを瞬時に思い出して、携帯通信端末を手に取った。手のひらがどんどん汗ばんで、喉がからからに乾いた。耳に届いたあいつの声は寝起きのかすれ声で、俺からの勝手な頼み事に対して、少しだけ沈黙を置いた後に「わかった。一時間待って」と言った。

 あっという間に着いた自宅。出たばかりのエレベーターが降下していく機械音が響く。鍵穴に鍵を差し込んで回す。ドアを引く。玄関には、あいつがノートパソコンを持ってきてくれた時に履いていた、スカイブルーの靴がきれいに並べられていた。


*


 静かに、浅い呼吸を繰り返す。繰り返し繰り返し頭に浮かんでは消えるいくつかのシーンに、嫌なものが喉の奥までせり上がる。
 私を好きだと口にした瀬名先輩、凛月くんの牽制としか思えない言葉、嵐が陶酔して口にした言葉、そして、デモ音源を配ったあの日、帰宅したレオがわざわざ私の部屋の扉をノックしてまで告げた「ただいま」。
 それらが私の喉元をぎゅうぎゅうと締め付けて、時々息が出来ずに咳をした。
 休暇の三日目、私は一人自室のベッドの上に転がって、連絡のこない携帯通信端末を胸に抱えて、ツンと痛む鼻の奥に耐えながら、決して涙だけは流すまいと布団を被っている。


*


 王さまが呟いた言葉が部屋の中の至る場所に気配を残している気がして、いてもたってもいられなくなって掃除機をかけた。

「結婚してから笑ったところを見ていない気がする」という、酷く切実で、あまりにも今更な正答。俺は逡巡してから窓の外に視線を逃し、「ふうん」とだけ答えた。コーヒーを飲み干した王様が、「なんであいつは俺と結婚したんだろう」と口にした。思わず王様に視線を戻したら、王様は左手薬指の、彼女の指にはない指輪を、右の親指で一度撫でた。

 そんなこと、俺が聞きたい。そう言えてしまえばどんなに楽だっただろうと思う。ずっとそばにあるものだと疑わず、彼女の手を掴めなかった自分があまりにも情けなくなるような王様の疑問。彼女に結婚を決めた理由を聞いたことはない。どんな決断にしろ、彼女が自分で決めたことだ。付き合って、一緒に暮らして、籍を入れる。そんなごく普通の、ともすれば順調に見える交際の中にあっても、彼女はゆっくりと何かを諦めた。諦めたことを知っていても尚何も言わなかったのは自分なのに、『自分から俺を選んで欲しい』と、子供じみた願いを抱き続けているのだ。

 自分のためだけの居心地の良さを保ち続ける部屋で、テーブルの上にはコーヒーカップとソーサーがバラバラに残されている。


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