XXXI:眼差しについて



 あいつが持ってきたノートパソコンを、見たことがあるようなないような、とにかく記憶にないクッションのケースから取り出した。隅に小さな穴が空いて、ファスナーの塗装が少し剥げた、毛羽立ったケース。取り出したノートパソコンをスタジオ備え付けの長い机の上に置いてから、何の気なしに一瞬放り投げそうになったケースを、思い直してそっと机の上に置いた。

 スタジオに大量にストックしてあるディスクを人数分取って、パソコンの中の音源を焼き付ける作業をしつつ、離れた場所で何やら話している四人を眺めた。そしてそっと、隣でディスクケースに「デモ音源」とペンを走らせるスオ〜に視線を移した。
「スオ〜は行かなくていいのか?あいつに会うの久々だろ」
「そう……ですね」
 なんとも歯切れの悪い返事をしたスオ〜は、俺の方を見ない。
「話してこいよ。ここは俺一人でいいぞ〜」
 静かな声が、呟いた。
「なんだか、あの四人が一緒にいると、入りにくいんです」
「勘ってやつか?インスピレーションに昇華させろ!」
 隣で強ばった表情を浮かべていたスオ〜の口元が僅かに綻ぶ。
「……その言葉、随分久しぶりに聞いた気がします」
 和らいだ表情に安心して、盗み見る気持ちで視線を四人に向けた。ふと気づく。あいつがセナを見上げたその眼差しが、どこかで見た記憶のある温かい色を乗せている。

 最近見た気がするのに思い出せないその色は、俺の中で得体の知れない何かに変わっていく。どこで見た?いつ?……誰の眼差しと同じなんだ?
 スオ〜が五枚のディスクケースに書き終わり、ペンを置いた。その音がやけに鼓膜に響く。
「きっとあの四人には、秘密があるんでしょうね」


*


 会社のデスクに向かって凛月くんからのメッセージを読んだ直後、心臓が大きく音を立てた。ドクドクとやけにうるさい心臓に、「なんてことはない、ただの世間話だ」と心の中で言い聞かせる。『セッちゃんちの鍵、まだ持ってるの?』シンプルに受け止めれば、ただの確認だ。瀬名先輩がレオを信頼して預けた鍵、それは今、普段通りに自宅のリビングにある小物用のトレイに鎮座している。でも疑問も同時に浮かぶ。なんのための確認?とは言え、メッセージを開いてしまったという事実。相手には既読を知らせる通知が瞬時に送られているはずだ。深呼吸を数度繰り返してから、携帯通信端末のキーボードに指を乗せた。『家にあるよ』たったそれだけを、慎重に何度も見返してから、ようやく送信ボタンを押した。

「大変だったね、不倫騒動」
 そして私は仕事帰りに、件の凛月くんと向かい合って、伊勢海老のトマトクリームパスタをフォークで手繰り寄せている。
 返事を送った後キャビネットの中に放り込んだ携帯通信端末は、昼休みまでそのまま放置された。昼休みにようやく、コンビニで買ってきたサンドイッチを齧りながら、どこか後ろめたい気持ちでそれを取り出した。
「……まさか凛月くんから、ご飯のお誘いがあると思ってなかったよ」
 画面には、私がメッセージを送った五分後に届いていた凛月くんからの返事が通知されていた。
 そして今、明るいレストランの個室で凛月くんと向かい合っている。人気の高いKnightsメンバーとプライベートで会うことはめっきり減ったけど、以前から外で会う時には個室を選ぶようにしている。
 凛月くんはカレーをすくい取りながら、口角を上げて声を出さずに笑った。
「ずっと、謝りたいって思ってた」
 口角を上げたまま言った凛月くんが、「そんなのあんたは望んでないだろうけど」と付け足す。
「凛月くんに謝られるようなことはないよ」
「……うん、そう言うと思った。でもあんな騒ぎになったのは、Knightsの実力不足のせいもあるからさ。そのせいで騒ぎになったところを、一度謝りたかった」
 ぼんやりと、夢ノ咲の頃の凛月くんを思い出す。そういえば凛月くんは、怠惰であまりにもマイペースに見えがちだったけど、実際は、陳腐な言葉だけどとても誠実で真剣な人だったような気がする。
「不倫って騒がれる二人を見るのは、結構嫌だったよ。好きな女に不倫させるって、男としてどうなのって思うしね」
 瞬間、心臓が大きく跳ねた。弾みでフォークが陶器の食器にぶつかって、音を立てる。
「……うそでしょ、気づいてないと思ってた?」
 驚き顔の凛月くんが、心底驚愕した声で呼びかけてから続けた。
「好きな女を不倫させるような女にするのは誰だって話。………大切に想うなら、止めるべきでしょ?まあ、これは俺が勝手に思ってるだけだけど。セッちゃんが不倫させるような男じゃないことを祈ってる」
 すぐになんでもない表情に変わった凛月くんが、カレーのついたスプーンで私のパスタを指して言った。
「冷めちゃうよ」


*


 自宅に揃えた音響機器にデモ音源の入ったディスクを入れて、高性能なスピーカー二つからちょうど同じ距離の、機器正面にあるソファに腰を下ろした。リモコンを操作して、親指を再生ボタンに乗せてから息を吐く。瞼を落とすのとボタンを押すのは、ほぼ同じタイミングだった。
 背後で、食器のぶつかる音が小さく響いて瞼をあげる。リモコンの一時停止ボタンを押してから、ため息を吐いてゆっくり後ろを振り返る。視線の先の王様が、さもやっちまったという表情でこっちを見ていた。
「わるい!」
「……別にいいけどぉ」
 あまりにもバツが悪そうな顔をしているものだから、嫌味のひとつも口からは出てこない。コーヒーカップを右手に、そっと左手でソーサーを遠くに押しやるその様が、あまりにも子供っぽくて思わず笑ってしまう。
「今度は大丈夫だ」
「いいよ、せっかく王様が来たんだし、後にする」
 デモ音源を聴いて、ディスクをもらったその後。さあ解散というところで王様は俺に足を向けて、とても言いにくそうに「この後セナんち行ってもいいか?」と聞いてきた。特に断る理由もなかったから了承して、俺は王様が運転する車で帰宅した。
「それで?王様は突然どうしたの」
 リモコンをローテーブルの上に置いて、王様がいるテーブルの方へ足を進める。王様は気まずそうに数度視線を泳がしてから、控えめに息を吐いた。
「最近、あんまセナとちゃんと話してない気がして」
 特別避けていたわけでもないのに、王様はそう言って、片眉を下げて笑う。以前の王様なら、別に俺と話さないくらいでこんな表情はしなかっただろう。それでも、王様の言葉は思いのほか俺を温かい気分にさせた。
「……ふーん?」
 抑制したつもりの、機嫌のいい声がわざとらしく素っ気ない返事をする。向かい側に座って、テーブルの上で両手を組んだ。
「おれさあ、どこかで間違えたんだと思うんだよ」
 王様が……れおくんが視線を落として言う。
「なぁにい?俺に人生相談?」
 何となく、僅かに重苦しくなってきた空気に耐えられずに目を逸らして軽いトーンで返す。れおくんはそんなことには興味を示さないで、感情を締め出したような表情でぽつりと、自分に確認する響きで紛うことなき正答を口にした。
「おれ、結婚してからあいつが笑ったとこ見てない気がするんだ」


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