XXIX:行方について



 早朝の陽光がキラキラと水面に跳ねる。冷たい潮風にベタついた毛先をそのままに、夜通しざらついたコンクリートの上でゆっくりと紡いだ楽譜を指先でつまみ上げた。紺碧の地平線の彼方に翳し、そして丁寧に畳んでからくたくたの鞄にそっと入れた。角がほつれたナイロン製のトートバッグ。随分前に荷物を腕に抱えていた俺にセナがため息混じりで押し付けてきたそれは、セナの手にあった時には随分高価そうに見えたのに、その面影はすっかりとどこかへ消え失せている。鞄を肩に掛け、裸足で砂浜を歩く。指の沈む感覚が鮮明だ。夜のあいだ中放っておかれた靴と靴下は砂まみれになっている。親指に穴があきそうな靴下が丸まって、ゴムがすり減ったスニーカーは酷く汚れている。それらを拾い上げて、コンクリートまで戻った。
 丁寧に砂を払い、靴下を履いて、スニーカーにつま先を突っ込んだ。顔を上げる。朝陽はぐんぐんと昇り、細かな砂をきらめかせた。
 静かな海辺を校舎の方に登って、変わらない学び舎を横目に、足を踏み出す。夜の海に足を向けた昨晩が嘘のように、不思議と穏やかな気持ちで、そっと校舎に背を向けた。
 新しい靴を買おう。そして、新しい鞄を買おう。透き通るような空に、薄い雲が流れている。


*


 なんとなく、他者からの情報を受け入れられない心持ちになることがある。今朝、唐突に思い出してしまった昔の穏やかな光景が、私をそうさせたんだと思う。アラームが鳴る前にすっきりと目覚めたはずなのに、頭は重く、思考はうまくまとまらない。折角余裕のある朝だったというのに、結局家を出たのは普段とそう変わりない時間だった。いつも通りのオフィスカジュアルに濃いカラーのジャケット。玄関の鏡に映るのは、十人並の、どこにでもいる女だ。
 自分は何者にもなれると信じていたのは、ずっと幼い頃のこと。今は、何者にもなれる人たちを全力で支える仕事をしている。
 コートのポケットから、携帯通信端末を取り出した。一度触れれば画面はすぐに明るくなるのに、私はそうしない。せめて会社に行って、気持ちを切り替えてから、それから凛月くんのメッセージを確認したい。懐かしい顔ぶれの一人、レオの大切な一人、私は、今の凛月くんを、たぶんよく知らない。
 会社のデスクにバッグを置いて、オフィスチェアーの背もたれにコートを掛けた。まだ朝だと言うのに、既にヒールが私の余力を減らし続けている。パソコンの電源を入れてから、ようやく携帯通信端末を立ち上げて、メッセージアプリを起動した。
「セッちゃんちの鍵、まだ持ってるの?」
 何気なく開封した凛月くんのメッセージは、たしかにそれだけが並んでいる。


*


 眠気覚ましにジムで汗を流し、シャワーを浴びて一度帰宅した。
 朝の五時に俺のメッセージアプリに届いたのは、王様からの「曲ができた」の一文だった。普段は脈絡のないよくわからないスタンプが添えられることが多い王様のメッセージにあって、異色だと思う。『いい曲を作る』とはっきり口にした王様の、その決意と覚悟を想った。俺が守んなきゃと拳を握った頃の感情が胸にせりあがって、言葉にできない感情が泣き出したい気分にさせる。彼女を抱いた自室のベッドの上で目を通した王様からのメッセージに、俺はすぐに返事を送った。「楽しみにしてる」。簡潔なたったそれだけの返事。すぐに既読を知らせるマークが付いて、「覚悟しとけよ」と返ってきた。
 クローゼットから出した服を丁寧にハンガーにかけ、トータルコーデネートをチェックしてから着替えた。洗面台に向かい、鏡越しに髪の毛先の一本まで念入りにスタイリングした。リビングに行き腕時計を嵌めた。時刻は朝八時。ジムで使ったジャージやTシャツ類を洗濯機に放り込み、自室で新しいトレーニングウェアを畳んでバッグに詰めた。王様が『いい曲を作る』と言った翌日に予約したボイストレーニングの開始時間は十時。つまるところ、俺は王様を信頼しているのだ。それでもなお、彼女の手を離す気持ちにはなれない。それが、俺自身の感情の矛盾だ。
 家を出て、予約しておいたタクシーに乗り込んだ。窓の外を流れる街並みにぼんやりと視線をやりながら、家に彼女がいたその瞬間の光景を甘く思い出した。


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