XXVIII:切っ先について



 夢ノ咲学院がそびえ立つ、その海辺で書き出した音の連なり。書き途中の五線譜の上に、その辺に転がっていた石ころを積み上げて重しにして、靴を履いたまま浜辺に足を下ろした。月に照らされた砂の薄蒼さが続く。波が静かに寄せては引いて、その度にキラキラと瞬く。寄せた波が砂浜を暗く染めて、深い色の海面に揺蕩ういびつな形の月を眺める。柔らかな細かい砂が、スニーカーの隙間という隙間から入り込んだ。ざりざりした感触が気持ち悪くてくすぐったくて、すこし笑った。乱暴にスニーカーを脱いでそのまま砂浜に転がした。足首までの黒い靴下も適当に脱いで投げ捨てた。裾が擦り切れたジーンズの裾を折って、飛沫をあげる波打ち際に足を進めた。寒くて冷たくて生ぬるい、不思議な感覚だ。惰性で寄せてきた波がつま先を掠めた。海の音。学生時代に、当たり前にすぐ側にあったもの。そして、当たり前にすぐそばにいたはずの、誰か。
 瞼を閉じて息を吸って、吐いた。俺のそばにいたはずのあいつの表情も、温度も、ぼんやりと輪郭だけが浮かび上がる。義務感に駆られて、やり場のない感情の行先の一つとして、八つ当たりのような、そんな抱き方しか、たぶんしてこなかった。そのことを今になって、なんとなく、ほんの僅かに後悔している。

「……ははっ」
 足先の波をささやかに蹴って振り向いた先に転がるスニーカーは、酷くくたびれて見える。それでも、海辺というシチュエーションと月光に淡く照らされるそれは、絵画的な雰囲気すら纏って、自称評論家の何人かは絶賛しそうな気すらした。

 何気なく指先でなぞった左手の薬指。ひやりとした金属は、こんな時でも鈍くひかる。


*


 ふと、昔のことを思い出した。

 私とレオと、私たち全員を取り巻く喧騒はほとんど沈静化して、ようやくぐっすりと、泥のように意識を手放すことが出来る夜を過ごした朝のこと。アラームが鳴動する前の携帯通信端末を手に取って、時間を確認してからアラーム機能をオフにした。メッセージアプリが着信を告げている。眠気が残るのにすっきりとした頭を持ち上げて、メッセージアプリを立ちあげる。そこにはとても、本当に珍しく、凛月くんからのメッセージが未読を知らせるアイコンと共に並んでいた。

 昔、あの学び舎の一室で交わしたなんてことのない雑談。卒業を間近に控えたその日、レッスンに集中できないという雑な理由で、Knightsのメンバー全員でお菓子と飲み物を囲んだ。私は卒業後のことをきちんとみんなに共有したことはなかったけど、みんなも私にはそれを聞かなかった。瀬名先輩とレオはとっくにみんなに自分のあり方だとか生き方だとかを、明確なビジョンと共に口にしていたから少しだけ居心地が悪かった。
「いつかお姉様も、ご結婚されるのでしょうね」
 司くんが、切実な響きの声で呟いた。司くんは、いつまでも夢の中にはいられない立場だ。高校卒業まではまだ時間があるはずなのに、帰宅すると彼の元へはにわかに縁談の話題が持ち込まれるようになったと聞いた。
「俺たちの審査に通ったらね」
 眠たげな眼差しの凛月くんが、意地悪く、夢を見るように目を細めてニヒルに笑った。
「審査も何も、このままなら王様がそのお相手になるのかしら」
 嵐が楽天な光を灯した瞳で天井を見上げながら軽く口にした。
「とりあえずちゃぶ台ひっくり返してやらなきゃねえ」
 瀬名先輩が、眩しそうに目を細めて、口角を僅かに歪めた。
「あら、ちゃぶ台買ってこなきゃ」
 嵐が両手をぽんと叩いて、みんなが笑った。レオが少し何か考え込むような間をとったあと、「セナん家にちゃぶ台は似合わないな!」と言った。司くんは「ちゃぶ台……?」と呟いてから、携帯通信端末でその形状を調べだした。瀬名先輩は「うちには絶対置かないからね」と、すごく嫌な顔をした。嵐は何も言わず、静かにレオを見つめた。そしてレオもまた、何も言わずに天井を見上げていた。その口元は確かに笑んでいた。

 そんなささやかなたった一つの場面を思い出して、指先を撫でた。これから仕事だというのに、酷く感傷的な気持ちになっている。指先では、昨晩塗ったばかりの、青みがかったピンクのネイルエナメルがつやつやしている。



*


 寝室で、分厚いマットレスから汗を含んでからじっとり乾いたぐしゃぐしゃのリネンを乱暴に引き剥がした。いくつか転がる枕カバーの端を持って、ぶんぶん振ってこれもまた乱暴にカバーを外した。それらを抱えて、洗濯機の中に放り込んだ。オーガニックショップで買った洗剤を入れてから、念入りに洗うコースを選択してスタートボタンを押し込んだ。
 寝室に戻って、毛布やら掛け布団やら枕やらを抱えてリビングを抜けた先の広いベランダに出た。丁寧に雑巾で拭いた柵にそれらを掛けて、再び寝室に戻った。寝室の窓を開け放す。途端に心地のいい冷たい風が、陽射しと一緒に流れ込んできた。ベッドサイドの小さなテーブルの下に隠すように配置しているゴミ箱を引き出した。丸められたティッシュと封を乱暴に切られた避妊具のアルミ製の袋が日差しに照らされている。ゴミ箱を手に寝室を出て、キッチンの大きなゴミ箱に中身をあけた。
 今日は午前中を自宅の掃除に使うと決めていた。リビングの時計はまもなく午前九時を指す。リビングに入ってすぐの場所にある収納の扉を開いて、中からフローリングワイパーを取り出す。洗濯の第一陣は既に済み、一部はベランダで風に揺れ、一部は浴室内で感想を待っている。フローリングを掃除し終わったら、寝室の加湿器を掃除する。ソファとベッドマットレスに掃除機をかける。再度時計を見上げて、午後にはジムに行って帰りに食材でも買おうと思う。日用品は通販で注文済み。帰る頃にはマンションの宅配ボックスに届いているだろう。

 リビングで存在感を放つ大型の薄型テレビの横に無造作に置いてある木製のトレイに目を止めた。そこにはお気に入りの腕時計が鎮座している。三十代まで使い倒すと決めた腕時計。それを「かっこいい」と言った純粋な眼差しの彼女が胸をよぎる。仕事に着けていけば、大体の女の子が「高そう」と言うし、「どこのですか?」と言う。もちろん決して安い買い物ではなかったわけだけど、「高そう」と言われても返答に窮するのは真っ当だと思うし、ブランド名を告げたあとのことを想像するのすら面倒だ。

 外出時には必ずこの腕時計がいる手首に目を落として、右手で左手首に触れた。あの夜掴んだ彼女の手首の細さ、ひやりとした薄い皮膚。瞼をきつく閉じた。王様、れおくん。彼女の手首を想ってすぐに脳裏に浮かんだ人の表情は、厳しい眼差しを湛えて笑っている。


次話
Main content




×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -