XXVII:瞬きについて



 リッツとの取り留めのない電話を僅かに思い出して、足を踏み出した。夜の夢ノ咲学院の姿は、あまりにも変わらない。変わらない場所に安心すると同時に、変わってしまった自分自身の異物感に目を細めた。
 学院は闖入者を咎めるだろう。その相手が卒業生かつ作曲家の月永レオと知っても、もしかしたら「正規の手続きを取って出直せ」と言うかもしれない。でも、同時に何も言わずに受け入れてくれるような気もする。深夜の学院を跋扈していた面々の顔を思い浮かべて、自然と足取りが軽くなる。海辺に降りればきっと、地平線までビーズを撒き散らしたような夜空が広がっている。

 次第に色濃くなってくる潮の匂い。ほんの少しの郷愁が胸を突く。戻りたいとは思わない。それでも、確かに胸を張って誇れるものが、ここにあった。
 潮風が前髪をさらう。夜空の下で広げた白い五線譜を、月明かりがぼんやりと浮き上がらせる。五線譜はいつだって俺の感情の行き場だった。吐き溜めに使ったこともある。それでも、今風に吹かれて端を捲らせるこの五線譜は、神聖な、鈍い白い光を放って俺の指を待っている。俺を待つものを脳裏に浮かべる。事務所、Knights、不特定多数のだれか、ナル、リッツ、スオ〜、セナ、そして、たぶん、


*


 ケースもない、ただそのままのディスクが、テーブルの上で不思議な光を放っていた。家電量販店で大量に売られているコンパクトディスクの、その無機質な白いコーティング。辺りを見渡して、人の気配を感じないことをそっと確認してから、傷がつかないように慎重に手に取った。ゆっくり裏返すと、記録層が細く色付いている。何かの予感を感じて、仕事帰りでくたくたになっているはずの体は意図せずに機敏に動いた。素っ気ないバッグから、書類を詰め込んだファイルをソファに投げ捨て、ノートパソコンを取り出した。モニターを開いて電源ボタンを押した。スリープ状態だったノートパソコンはすぐに応答して、画面がほのかに明るくなった。パスワードを入力して、ディスクトレイのボタンを押して、手に持ったディスクを丁寧に置いて、一呼吸置いてゆっくりとトレイを押し込んだ。
 息をとめて音を待つ。脳裏に浮かんだのは、きっと、あの学び舎で過ごした、嵐のようで、穏やかで、切なくて、幸福な時間だった。

 胸元に右手を当てた。神に懺悔する信徒のようだと思った。胸元に刻まれていた痕跡が消えてしまった皮膚を淋しく思うと同時に、安堵した。


*


 部屋に入ってすぐ、彼女の指先を解放した。いつになく緊張しているらしい俺の手が、柄にもなく汗ばんでいる。彼女は離れた右手を抱くように、左手を添えた。
「……シャワー浴びたら」
 彼女が驚いた表情で、俺を見上げる。その眼差しの中で何かの感情が揺れたように見えて、思わず唇を重ねた。柔らかい唇。熱い舌先。くぐもって湿った吐息。それでも、彼女の手は俺に触れない。
「浴びなくていいんなら、別にいいけど」
 細い手首を掴んで、少し前に彼女が俺を介抱してくれた寝室に引っ張り込む。毎朝きれいに整えているベッドに彼女を半ば放り投げたら、リネンの皺が生々しくなった。

「……っ、ぅ」
「……ほんと、なんでいつも声我慢するんだろうね」
 いつか言った記憶がある。もしくは毎回かもしれない。彼女の肌は汗でしっとりとして、肌が触れる度にその弾力で反発されるのに、一度触れたらそこから融解しそうな錯覚に陥る。
「せなせんぱい、」
「、うん、なあに?」
 手首を掴んで寝室に引っ張りこんだその瞬間に頭をもたげたはずの " 乱暴にしてしまいたい " という気持ちは、すっかりどこかへ消し飛んだ。汗で額に張り付く髪を指先でそっと除けて、その額に唇を落とす。まるで皮膚を一枚ずつ剥ぐように脱がした服の下の、霰もない、薄ら寒そうな肌。
「、あいたかった、でも」
「……うん」
「あいたくなかったんです」
 予感はあった。だから、彼女の乳房を指先でなぞりながら、息を吐いた。
「そうだねえ。……俺はずっと二人を見てたから」
 知ってるよ、と続けようとした唇が、彼女の掌で塞がれた。彼女の表情は、まざまざと恐怖を映し出している。口を塞ぐ手が僅かに震えている。だから、俺はわらった。
「そんなに薄情に育てたつもりなかったんだけど」
 彼女の手を握って言う。彼女の目が細められて、ほんの少し笑った。同時に、目尻から涙がこぼれて、皮膚を伝った。
「せなせんぱい、せな、……いずみ、さん」
「うん、ここにいるよぉ」
 小さな子供をあやすような声で、彼女の耳元に唇を埋めた。頬、首筋、肩口、胸元に順に唇を落として、胸元だけ三回、強く吸った。見つかるな、見つかってしまえ。相反した感情でどうしようもなくなって、前に大阪で使ってからしまい込んでいた避妊具を取りにベッドから離れた。
 これまでは絶対に、俺の部屋に呼ばなかった。この前で懲りたはずだ。事実が知られた時、男より女の方が辛くなる。それでも思う。辛くなって、そうしたら、たぶん彼女は、俺に手を伸ばす。
「ごめん、早かった?」
 ベッドに戻って、正しく避妊具を装着する。彼女の大腿を持ち上げて、先端をあてがった。彼女が小さく、笑い声を上げた。腰を押し込む。弾力が僅かに押し戻そうと蠢いた。彼女の喉が小さく鳴いた。そこはいつもより、濡れてはいなかった。
「アンタを好きなのは、俺だよ」
 一気に奥まで押し込んだその太ももの付け根から、皮膚と皮膚のぶつかる音と、悲鳴のような水音が上がった。
 彼女の腕が俺の背中にまわされることを祈りながら動く。彼女の両腕ががゆっくりと俺を抱きしめた時、思いがけなく、呆気なく、どうしようもない感情が放出された。


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