XXVI:渦について



 傷だらけ以前の問題のような液晶画面のひび割れを見ないふりして使っている携帯通信端末を、とうとうベッドに放り投げた。何度耳に当てて呼び出し音を聞いたか、途中で数えるのをやめた。『電話くらいでろよ』、何度呼び出しても一向に電話に出ないセナに、心中で一度悪態をつく。それでも、俺からの電話に出ないことより珍しいのは、折り返しの連絡もなければメール一つ寄越すこともないことだ。いつもなら、すぐに折り返しの電話があるか、都合が悪いというメールくらいは必ず届く。たとえそれが深夜であっても。それでも今回は何の音沙汰もない。たまにはそういうこともあるかもしれない、気を取り直して、ようやくベッドににじり寄って再び通信端末を手に取った。アドレス帳を開いて、親指を上下にスライドしながら考える。誰に連絡をすれば、誰と話せば、俺の望むインスピレーションを、もしくはその糸口を得ることができるのだろうか。
 飽きもせずにまた脳裏に浮かんだセナの顔を振り払うように、親指をスライドして、氏名の羅列を行ったり来たりした。あいつの名前が、画面の下に流れていく。籍を入れる時に、なぜだか律儀に姓を "月永" に登録し直したあいつの名前。すっかり画面の外に消えたその名前も振り払って、少し悩んでからリッツの番号を呼び出した。呼び出し音が続く。ほとんどかけたことのない番号なのに、なんとなく着信に気づいたリッツの姿や行動を思い浮かべることができた。たぶん面倒そうに、受話ボタンに親指を置くだろう。唇から無意識に息が漏れた。明らかに、それは安堵を含んだため息だった。だから、呼び出し音が唐突に止まり、寝ぼけた曖昧な返事が耳に届くと同時に、俺は電話した理由を思考の隅に追いやった。


*


 ベッドの上で、何度も何度も寝返りを打つ。白い天井を視界に映して、ため息を吐く。鉄製のフレームが冷ややかなベッドに、ブラウンのリネン。「寝る場所は心からリラックスできるようにしておくべき」といつだったか口にしていた瀬名先輩の、そのくつろいだ響きを鮮やかに思い浮かべた。

 「アンタを好きなのは、俺だよ」そう呟いた瀬名先輩。呟いたと言っても、それは明確に断言された、はっきりとした輪郭の声だった。ベッドの中での声は、いつだって柔らかくて、湿度の高い、甘い響きだった。はっきりと口にしたその時の瀬名先輩の表情を、私は思い出せない。
 心から楽しんだとは言い難い食事中、瀬名先輩は自分の手元の、ブランパンの腕時計を見つめていた。普段通りのすっきりとした上品な装いの中を、適度な遊び心でカジュアルダウンした印象のダイバーズウォッチ。いつか、私から「かっこいい」と口にした時に一度だけ告げられたそのブランド名は聞き馴染みがなかったから、帰宅後に調べて一瞬白目になったことを思い出した。なんでもないような口ぶりだったのに、口元が僅かに緩んでいた瀬名先輩の表情が脳裏に浮かんで、そして同時に、私を抱きながら、私を好きなのは自分だと口にしたその瞬間の、瀬名先輩の心中を図りかねている。

 すっかり薄くなってきえた、薄い皮膚の上に残された独占欲。毛布を握って、乱暴にかぶり直した。寝て、そして色々なことは日中に考えるに限る。深夜の思考は、百害あって一利なし。それは私が、輝いていた学び舎からずっと、ゆっくりと、実感を持って学んだ事実だ。


*


 指先で彼女の指先を捉えた瞬間、言いようのない感情が喉までせり上がってきた。何かを告げてしまいそうになって、思わず息ごと呑み込んだ。

 互いの核心に触れない、薄いヴェール越しに輪郭をなぞるような会話しかできなかった食事のあと、携帯通信端末で立ち上げたアプリを操作してハイヤーを一台手配した。タクシーのような無粋さがなく、時々高級車と呼ばれるメーカーの車が現れるそのサービスをよく利用している。ドライバーが開けた扉の前で、彼女に先に乗るよう促して、広々とした後部座席の端と端に腰を下ろす。運転席に戻った白い手袋のドライバーに地区とマンション名を告げれば、車は滑らかに動き出した。
 マンションの、申し訳程度の車寄せに降り立つ。クレジットカードを登録済みということもあって、車から降りるのは乗る時よりもスムーズだった。ドライバーが足早に後部座席の扉を開けたのを確認してから、軽くお礼を口にして外に出る。車内に右手を差し出せば、彼女はとても自然に俺の手に自分の手を重ねた。

 マンションのエントランスに入って、コンシェルジュの出迎えの声に微笑んでやる。車を降りて直ぐに俺の手を解放した彼女と一緒にエレベーターに乗り込んだ。エレベーターのボタンを押して、そうしてようやく、俺は彼女の指先に触れた。
 全身が粟立つ感覚に、奥歯を噛み締めた。この手を当たり前に握るためだけに、ずっとそばにいたはずだ。それなのに、彼女の手を当たり前に握れる人物はたぶん彼女の手を取ったりはしない。そのことが、たまらなく悔しくて、悲しい。何かを言ってしまいそうになって、言葉を飲んで俯いた。その言葉が爆弾になることくらい、自分でもわかっている。


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