XX:夢の始まりについて



 セナがいないのをいいことに、全体で集まっての仕事は先に伸ばした。各自に降って湧いた比較的自由な時間に、ナルは髪を切りに行き、リッツはスタジオ内でピアノをひとしきり弾いた後電池が切れたように眠り、スオ〜はこれまでに録った音源をイヤホンで聴きながら楽譜に何やら書き込んでいた。
 いつもより早い時間に解散して、自宅に戻る。家には人の気配がない。あいつを抱いてから、あいつは俺に対して殊更に距離を置くようになった。その眼差しに、これまでとは違う恐怖めいた感情が浮かんでいるのに、見て見ぬふりをしている。


*


「せな、……泉さん」
 熱で弱っているのか熱に浮かされているのか、瀬名先輩は私に「ここにいる間は名前で呼んで」と言った。言い慣れてしまうことが怖くて、何度も呼ぶことの出来ない名前だ。
 整頓された、あまり使用感のないキッチンで作ったおかゆを器に盛って、水の入ったグラスと薬と一緒にトレイに載せてベッドルームへ入る。
「……ベッドで食事するの、好きじゃないんだけどねえ」
「そうは言っても、フラフラでしょう」
「まぁね」
 ベッドサイドの綺麗なサイドテーブルの上にトレイを載せて、額の冷感シートを取り替えようと手を伸ばした。
「大丈夫……食べたらシャワー浴びる」
 熱に浮かされて甘えきったまま、食べさせてとか言われたらどうしようかとほんのわずか緊張していたけれど、瀬名先輩はそんなことは一切言わずに上半身を起こした体勢でおかゆを口に運ぶ。
「……おいしいですか」
「あんまりわかんない」
 その言い方が少し子供っぽくて、思わず笑った。
「食べたら薬飲んでシャワー浴びて寝るよ」
「はい」
 ほんのちょっと不貞腐れた言い方の瀬名先輩が、小さく付け足して口にする。
「もう1回名前で呼んで」


*


 マネージャーからの電話で起こされた朝は、リズムが狂って一日のスケジュールが乱れる。普段ならそう切って捨ててしまうのに、その日ばかりは携帯通信端末を取り上げて、一度咳払いをしてから通話ボタンを押した。ベッドサイドには彼女の気配が残る。俺がシャワーを浴びている間にリネンを取り替えてくれた彼女に感謝しつつ、受話口を耳に当てた。
『昨晩、瀬名さんのマンションに行った女性はどなたですか』
 焦りと怒りを押し殺して、冷静を取り繕おうとする人の声だ。冷静であろうと自分を律する時、その声はとても冷酷になる。開口一番に切り出された話題に、息を吐いて答える。
「ああ、れおくんの奥さん」
『……れおくん、……月永レオですか?』
「そうだけど」
 事実だけを、なんでもないように口にする。片手で端末を支えながら、ベッドサイドのガラスのミニテーブルから体温計を取り上げた。
『……Knightsの作曲家の奥様、ということですね』
「そうだね。まあ、それだけじゃないけど」
 白いTシャツが汗でぴたりと背中に張り付いて気持ちが悪い。体温計をケースから取り出して、脇の下の差し込んだ。今度口で計る体温計を買おうと思う。
『他には何かあるんですか』
「いや、高校の同級生でもあるだけ」
 きっと写真でも撮られて、それが事務所に持ち込まれたんだろうことは安易に想像がついた。
 脇から体温計が計測完了の音を立てる。取り出して、電源を切ってサイドテーブルに戻した。
『作曲家月永レオの妻であり、高校時代の同級生……』
「一人暮らしで頼れる人間が少ない俺にはうってつけの看病役でしょ」
『……まあ、確かに……』
 向こう側から、反駁する言葉を探している気配を感じた。けれどマネージャーはそれ以上の言葉を発しない。発せるはずがなかった。事実として、俺が熱を出してどうにもならないと連絡したメンバーの中に彼女は含まれておらず、Knightsのメンバーか王様かの誰かが彼女に助けを求めた以外に解はないのだ。
「あと、付け足すなら別に俺が彼女を呼んだわけじゃないから」
『誰かが、月永さんの奥さんに伝えたということですね』
「なるくんがね」
『ああ、……そうでしたか』
 悩む唸り声が耳元で聞こえて、耳障りだから少し受話口を耳から離した。
 俺は事実を伝えた。恐らく事実確認を指示されたであろうマネージャーは、この結果を上に報告する。写真を持ち込んだ人間が誰であれ、恐らく公表されるようなことにはならない。公表しても意味が無い。
「……悪いけど、まだ微熱が続いてるから寝たいんだよね」
『…………わかりました』
 返事を聞き終わるか終わらないかの内に終話ボタンを押して、端末を枕の横に投げた。
 彼女は昨晩、何事もなく帰宅できただろうか。枕元に転がる携帯通信端末に、彼女からの連絡は入っていない。


次話
Main content




×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -