]Y:空気について



 アラームの音で目が覚める。家にあいつがいると言うだけで、聞こえるとは思えないのに音を長々と響かせることができない。瞬時に携帯通信端末の目覚ましアプリを停止して、ベッドから起き上がった。さっさと着替えて、さっさと家を出よう。室内の狭いクローゼット、少ない服の中から、適当な服を探す。今日は久々のオフだというのに、家でのんびりすることも出来ない。それなのに、夜は昨晩とは打って変わってぐっすり眠れてしまった。それがなんだかたまらなく悔しい。
 端末で時間を確認した。午前7時を示すデジタル時計の下で、着実に秒が進んでいく。服を着替えてから、ドア越しに家の中の気配を伺う。あいつが家を出るのは、大体7時半頃だ。息を潜めてはいるが、目が覚めたのならさっさと顔を洗って歯を磨きたい。なんとなくぺたぺたする顔面が、途端に気持ち悪い。
 そっと扉を押して、部屋の外に出た。リビングの明かりと、カーテンを開けられた窓から差し込む朝の日差しが、足元をはっきりと照らしている。リビングの方を覗いたら、あいつはテーブルでマグカップを片手に何かの書類を眺めていた。
「……おはよう」
 思いがけず、何故だか自分の口から飛び出した言葉に、自分で一番驚いた。一体何を口走ったのか。朝の挨拶なんか、こいつと交わすのは何時ぶりだ。
「………………おはよう」
 恐る恐る視線を上げたら、こいつもまた、怪訝そうに、困惑の表情を隠さずに返事した。とりあえず無視されなかったことに、何故だか少し安心して、「じゃあ」と切り上げて洗面台に踵を返した。


*


 仕事に押されてようやく昼食にありついたのは、太陽の下でも冬の薄寒さの残るビル群の中だった。時刻は午後3時を示す5分前。ビル群の中で入ったカフェは人がまばらで、それをいい事にソファの座り心地が良さそうな角の四人席を陣取った。
 テーブルの上にノート型のPCを開き、肘をついてぼんやりと窓の外を眺める。薄い雲がゆっくりと流れて、ビルの裏に吸い込まれていく。オーダーを聞きに来た店員にカフェオレを頼み、おもむろに自分のことを考え出す。
 偶像に対するミーハーな気持ちは、夢ノ咲に置いてきてしまった。彼ら彼女らは、等しく苦難を知り、喜び、涙する、私と変わらない一個の人間だ。私たちと異なるのは、その他大勢から抜き出た魅力と、私たちの知らない努力。それらを目の当たりにした今になって、アイドルというものへの憧れは形を変えた。この人達が輝く手伝いをしたいという気持ちに偽りはなく、ただし、ほんの時々脳裏を過ぎる憐れみ。レオと瀬名先輩との物語は聞き齧っただけなのに、今更思ってしまうのだ。「かわいそうに」これまでもこれからも、一切口に出す気がないその感情に、私は未だに囚われている。その感情の出どころについて、見て見ぬふりをしながら。


*


 空が薄い橙に染め上げられる頃、予定通りにジムで汗をかき、シャワーを浴びていくつかのショップに立ち寄った帰り、テイクアウト専門のオードブルの店の前で立ち止まった。
 今日はマリネでも買って、保冷庫に入れっぱなしのワインでもあけようか。腕時計を見下ろして、今から帰っても午後11時までには寝れそうだと思案する。当然ながら、糖質の多いバゲットは食べないことにする。店頭でマリネをグラムで頼み、革製のシンプルな財布から紙幣を取り出した。
 その時になってようやく、彼女のことを思い出す。そういえば昨日一日、新幹線が駅に着いてスタジオに入る頃から、彼女のことは考えなかった。それが、俺たちの距離だ。正しく理解している。正しいことと正しくないことを重ねて、結んで、解きながら生きていく。彼女との関係は、正しくもあり、誤りでもある。
 丁寧にパッキングされた、玉ねぎがたっぷり入った生ハムとサーモンのマリネが入った袋を受け取り、薄く口元だけで微笑んで店を離れた。


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