]X:心臓について



 好調に終わった一日のレコーディング。録音機材を通してパソコンに取り込まれたKnightsの歌が、スピーカーから流れ出す。
 スオ〜のリベンジには舌を巻いた。何度聴いても、これ以上ない結果だと思う。昨日は昨日で随分成長したよなあと呑気に思っていたが、どうやら俺はスオ〜を見くびっていたらしい。
 セナの歌声は、俺の満足を超えてきた。いとも簡単に、軽々と。「いいな!」自然に口にした言葉。セナはほんの少し照れくさそうに、口元を綻ばせた。「王様が作った歌なら、何でも歌うよ」とても静かな返事だった。

 空が真っ暗になって、星が煌めく。軽やかな足取りでマンションへ戻った俺は、扉に鍵を差し込み、回そうとしてハッとした。朝、鍵を掛けたその扉。鍵はロックを解除する方向には回らなかった。
 静かに扉を開ける。家の中は明るく、玄関には、つやつやした黒い靴と、新しいのか見慣れない、スカイブルーの靴が並んでいる。スニーカーを脱いで、並べることもせずに、ゆっくりと部屋に入る。案の定、リビングのソファにはあいつがいた。
「……いたのか」
 そっと顔を上げたその眼差しには、何の感情も込められていない。膝の上にまとめてある衣服を抱えて、緩慢な動作で立ち上がった。
「……お帰り。じゃあね」
 洗濯物らしきそれらを抱えたまま、俺の横を素通りする。通り過ぎるその瞬間に漂った何かの匂いに、途端に気分が重くなった。


*


 思いのほか荷物が増えた帰りの新幹線で、前の座席に備え付けられている簡易テーブルを引き出した。バッグから薄いパソコンを取り出して、メールソフトを呼び出す。宛先に会社の上司、カーボンコピーに自分のメールアドレスを自動入力し、出張の報告を簡潔にまとめて打ち込んでいく。最後に、今後の簡単な流れを添えた。きっと指摘が入るだろうけど、自分なりに考えたその予定を、きっと上司は前向きに捉えてくれるだろう。
 メールの送信完了を確認して、パソコンをそっと閉じた。バッグの中に入れて、簡易テーブルを元に戻す。窓側の座席下にあるコンセントから伸びるケーブルは、膝の上の携帯通信端末に繋がれている。昨晩、充電をすっかり忘れてしまったために、新幹線に乗るまでの間は少し心許なかったのだ。
 窓の外を見つめる。大阪なんてあっという間。あっという間にほんの少しの非日常から、日常に戻ってしまう。気が重いのは、きっと少し淀んだ空色のせいだろう。

 自宅に着いたのは、19時を過ぎた頃だった。とりあえずバッグをリビングのソファの上に放り投げて、自室から部屋着を持ってバスルームに飛び込んだ。熱いシャワーを浴びて、丹念に体を洗う。なんの痕跡も残らない体から、なにかの気配を洗い流す。備え付けの鏡には、顔色は悪くないのに冴えない表情を浮かべた女の肌を、泡がゆるやかに滑っていく光景が映されていた。
 バスルームを出て、気楽な部屋着に着替え、裸足でリビングへ入った。大きな窓を隠すような暗い色のカーテンを一気に引く。外はすっかりきれいな夜空だ。星が瞬いて、月明かりが家々をほの柔らかく照らす。電気の下で、ソファに投げたバッグから、昨日着た衣服を出す。洗濯ネットに入れるもの、他のものとは別に洗いたいものを丁寧に分ける。その中に、何故か一つだけ未開封の避妊具が紛れ込んでいて、誰に見られている訳でもないのに、それをバッグの底板の下に急いでしまい込んだ。


*


 未だに心臓がバクバクしている。かさくんの、伸びやかな声が耳が離れない。僅かな焦りと、それを超えて余りある喜び。リベンジに恥じないその歌声に、みんなが目を見張っていた。
 高揚をそのままに、マンションに戻る。丁寧に手を洗ってから、バスタブにお湯を張った。今朝スタートボタンを押した洗濯乾燥機の中から、すっかり乾いて清潔な香りのする衣類を取り出す。それを乱雑に抱えて、リビングルームのソファの上で簡単に畳んでいく。その間も、頭の中に浮かぶメロディは王様が書いた俺の歌ではなく、かさくんの真っ直ぐな気持ちを乗せた、高く低く響く声だ。
 一通り畳み終わった衣類を持って、寝室にあるクローゼットへ移動した。カテゴリ別に分けた引き出しにそれらを並べていく。明日は久々になんの予定もないオフだ。衣類を全て仕舞った後、大きく上に伸びをした。首周り、肩のあたり、背中が伸びて気持ちがいい。広いウォークインクローゼットの電気を消して、右手で左肩を解しながら壁のカレンダーを見る。明日の午後はジムへ行って、少し体を動かそう。帰りにショップを覗いて、トレンドの小物を一つ二つ見繕って、早めに休もう。
 ふと、ベッドの上に乱雑に脱ぎ捨てたままの部屋着を見つけて、肩を落とした。


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