]IV:雲の形について



 スタジオの中は、既に不思議な空気が満ちていた。高揚と僅かな焦りと緊張。セナがブースの中でセッティングの確認をしている。その表情がとてもリラックスしているように見えて、安心した。
「あ〜王さまおはよ〜」
 スタジオに入ってすぐの、黒いソファから起き上がって気だるそうな声を上げたリッツが、その右手をぷらぷらさせた。
「おはようリッツ」
 その右手を軽く叩いて、目線を上げる。幅のあるソファの端に座ったナルが、手元の写真を見比べている。
「仕事か?」
「あら、王さまおはよう。そうなの。お気に入りのものを特集するんですって。アタシまだやってなかったんだけど、泉ちゃんはもう終わったって言うから」
 荷物をソファの横に置いたスオ〜が、上着を丁寧にハンガーに掛けて、大きな鏡の前に立つ。腹筋に手を当ててゆっくりと呼吸するスオ〜の、その肩がゆっくりと上下する。


*


 デパートを歩きながら、無難な服と、それから少しめかしこんだ服を買った。瀬名先輩の隣を歩く時、自分の服装に違和感を持ったのはいつだっただろう。適当に引っ張り出した服を着て歩くレオと、少し距離をあけて歩いていた時には全く気にならなかった。
 ずっと、気配だけを感じていた。視線に気づいたのはいつだっただろう。瀬名先輩の香水の香りに、ふと顔を上げたその瞬間のことを、今でも鮮明に思い出すことができる。それが瀬名先輩の香りだとすぐにわかった自分に対して、何よりも一番驚いた。
 デパートの硬い床に、ヒールの軽やかな音が響く。自然と背筋が伸びる不思議なパンプス。いつも少し猫背で、どこか安心する薄汚れたスニーカーを履いていたレオ。隙のないピカピカの、お気に入りの靴を履いていた瀬名先輩。そして、その瀬名先輩が苦々しい色と呆れた色を複雑に混ぜたような表情で、「靴はちゃんとしたものを履きなよ」と言った時、私は途端に恥ずかしくなった。その時履いていた3,980円の、流行りを押さえたチープな靴をすぐに脱ぎたい気持ちになって、涙が出そうだった。

 きれいなラインの靴が並ぶショップの前で足を止める。いつでも、私の心をそっと揺らすのは、レオと瀬名先輩だけだ。それがとても悲しいことのように思えて、無理やり、いつもなら選ばない明るいカラーのパンプスをレジに押し付けた。


*


 普段は最低でも6時間眠ることを自らに課している。肌のコンディション、喉のコンディション、あらゆる体の部分が一番調子の良い睡眠時間というのは、たぶん俺にとって永遠の課題だろう。それでも、今日は事実として寝不足のはずなのに、体感としては8時間は眠ったような体の軽さだ。思考がクリアなのが自分でもわかる。
 駅から乗ったタクシーで、一旦自宅マンションへ戻った。バッグから出した衣類をなるべく丁寧に分けて、洗濯乾燥機に入れた。キッチンに立って、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出し、グラス一杯分の水を流し込んだ。キッチンカウンターにより分けて並べておいた何枚かの写真から、世間から見える瀬名泉のイメージを崩さない被写体のものと、一枚だけ意外性のある被写体のものをピックアップして、蓋付きのクリアケースに収めた。
 そうして服を着替えて、再びタクシーを呼び、誰よりも早くスタジオに入る。誰もいないスタジオの、少しくたびれた黒いソファ。ヴィンテージのそれは、一番最初にこのスタジオに入った時、センスがいいなと感じたものだ。何人ものミュージシャンや、その関係者を見て、受け入れ続けたソファ。背もたれを一度撫でる。このソファは、いつまで俺を迎えてくれるだろうか。


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