]T:道標について



 携帯通信端末がけたたましい音で起床時間を告げる。ベッドから起き上がって最初にしたのは、胃のあたりに手を当ててため息を吐くことだった。深夜に目が覚めて吐いた割には、気分はそんなに悪くない。それでも胃の奥はまだずしりと重くて、今日の食事は栄養補給ゼリーだけにしようかと思案する。そもそも、別に食事にこだわりがある訳では無い。おいしかろうがまずかろうが、それが自分の血肉になる。必要な栄養がとれて、それで体が思う通りに動くなら、別にそれでもいいようにすら思うのだ。
 ふと、学生時代に食べたあいつの弁当を思い出した。味は思い出せない。何が入っていたのかも思い出せない。それでも、俺が何かを思う時、何故かあいつとのことが記憶の端から引っ張り出される。それを不快に感じてしまう。それなのに、俺はまだ、左手の薬指にある細かな傷のついた指輪を、外そうとは思えないでいる。

 今日もレコーディングだ。気分が悪くても、Knightsのメンバーに会うのは嬉しい。あいつらが笑うのが、俺を呼ぶ声が、それが俺を音楽の世界に繋ぎとめた。今日はセナのソロの音録りがある。セナはいつでも、俺の期待以上の歌を聴かせる。久々に心が沸き立って、ベッドから跳ねるように起き上がった。


*


 シティホテルのダブルサイズのベッドは、思ったよりも広くはない。二人で並んで、寝返りを一度打ったらすぐそこに絶壁があるほどの大きさだ。瀬名先輩の腕枕に落ち着いて、鼻先にくっつくその胸板から感じるほのかな汗の匂い。瀬名先輩との長いセックスのあとは、いつも二人、こうしてお互いの肌に触れながら呼吸する。時々、瀬名先輩が吐いた息が私の髪を掠める。
 額をその胸元に擦り付けて、視線だけで瀬名先輩の表情を伺った。視線が合って、瀬名先輩が笑った。
「……寝てもいいよ」
 少しだけ掠れた、甘くて低い声。寝てもいいよと言うその張本人の眼差しが、眠たげにぼんやりしている。その様がかわいくて、背中に腕を回して更に肌を密着させた。
「甘えたいのぉ?」
 私の頭の下にある腕が動いて、その手のひらが私の後頭部を包んだ。温かくて大きい、私が落ち着く手のひら。
「瀬名先輩、何時に出るんですか」
「……7時の新幹線」
「送りたい」
「だめ」
 瀬名先輩は、見送られることがあまり好きではない。いつだったか、「同じ場所に帰れないってことを見せつけられるみたいで好きになれない」と言っていた。それでも瀬名先輩を見送りたいと思ってしまう。手を繋いで歩いて、手を振って見送りたい。でも、その時に何て言えばいいのかは、私にもわからない。言いたい言葉が見つからないままだ。きっと、「またね」も「行ってらっしゃい」も「バイバイ」も、全部詰め込んでただ手を振ることしか出来ないんだと思う。


*


 室内がほのかに明るい。カーテン越しに鈍く照らされた部屋の中、腕の中で安心しきって眠っている彼女を見下ろした。ベッドのパネルに表示されているデジタル時計が、午前5時20分を示している。そろそろ起きて、シャワーを浴びて着替えよう。眠気は残るけど、体は軽い。名残惜しくて、彼女の額にキスをひとつ落としてから抱き締めた。

「……せんぱい?」
「もう少し寝てな」
 シャワーを浴びて髪を乾かし、白いコットンのノーカラーシャツを着た。その上からぴったりとしたブラックのタートルネックセーターを被る。セーターの裾から、白いシャツの裾を覗かせる。結局、夜のそのそ起きて下着と寝巻きをきちんと身につけてから眠った彼女が、眠そうに人恋しい声で俺を呼ぶ。
「いま、何時ですか」
「6時10分を過ぎたところ」
 フェイスが大きめの腕時計を手首に巻き付けた。黒いスキニーに革靴の深い茶色が映える。室内の壁に設置された全身鏡に自分を映して、少し無難だったかと反省した。
「また連絡する」
「……うん、はい」
 白いベッドの中、ぐしゃぐしゃのリネンに包まれた彼女が、寂しげにそれだけ返事する。
 ベッドから出てこない彼女に安心して、部屋を出た。デスクの上に置いてきたシングルルームのキャンセル料を思う。まるで、彼女を買ったみたいだ。


 新幹線に乗ったら、今日の音録りをシミュレートして少し眠ろう。王様が作った恋を紡ぐ歌はあまり俺の心には響かないけど、それでもあの曲は多くの人の心に残るだろう。王様の恋の歌は、いつでも相手が不在のままだ。


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