Z:空白について



 マンションに着く。エントランスでオートロックを解除して、自動扉をくぐって足早にエレベーターに乗り込んだ。心中に、幾ばくかの淀みを感じる。または、何層にも重なった薄汚い澱のようなもの。それでも足は軽い。今日は家に入る時に息を押し殺さなくてもいい。顔を合わせてしまったらと心配する必要はない。上昇していくエレベーターの中で、右手の指先で左手薬指の指輪を撫でた。

 鍵穴にドイツ製の鍵を差し込んで捻る。重い扉を引き寄せて、中へと体を滑り込ませる。そうだ、あいつも最初、「扉が重いね」と言っていた。俺の目は見なかった。同行した不動産業者への問いかけにも、独り言のようにも聞こえた。だから俺は返事をしなかった。真新しいフローリングに黒い靴下が映えて、たぶんここで二人の新しい生活が始まるんだ、と、理由もなく確信した。
 大丈夫だ。まだ大丈夫。俺の指には指輪があって、あいつとは法的に繋がった夫婦だ。だから、これからも何も変わらない。


*


 洋風居酒屋の、カウンターに並ぶ背の高いスツール。そのテーブルの上に置いた携帯通信端末の画面が明るくなる。途端に私の気持ちまでほんの少しだけ明るくなって、すぐにそれを手に取った。「ホテルに着いた」。素っ気ないメッセージ。「近くの居酒屋にいます」両手の親指で滑らかに返信を打ち込んで送信する。メッセージの送信が完了したことを確認して、すぐにこの居酒屋の地図を調べて画像を貼り付けた。送るそばから既読マークがつくメッセージ。思わず口元が緩むのを隠しながら、通信端末をテーブルの上に戻す。

 大阪まで来るなんて聞いてない。来るなんて、来てくれるなんて、出張に行くと伝えてから一度も聞いてない。瞬間的に、脳裏ではホテルの部屋について疑問が過ぎった。仕事は元々日帰り予定、そこに有給休暇を一日くっつけて、つまりホテルは自腹のシングル。きっと瀬名先輩は泊まっていく。そこまで考えてから、シングルルームをキャンセルしてダブルルームを取り直そうと携帯通信端末を手に取った。送るメッセージを待ちわびるように、すぐに既読にしてくれる人。会いたいと言ったら、言わなくても、会いに来てくれる人。
 大丈夫。私には、私を大切にしてくれる人がいる。さみしい時に抱きしめてくれる腕がある。だから何も怖くない。


*


 ホテルのカウンターでチェックインの手続きをする。フロントの男性がにこやかに宿泊カードの記入を促す。手元の書きにくいボールペンで必要項目を埋めて返す。彼女から大阪出張を聞かされた日に、交通に便利なホテルを教えた甲斐があった。彼女は何の疑問も持たないで、「じゃあそこにしようかな」と笑った。そのホテルのダブルルームを、その翌日に俺が予約したとは夢にも思わなかっただろう。

 駅からホテルへの道すがら、コンビニに寄った。ミネラルウォーターを二本と、避妊具。普段避妊具を対面で買うことは無い。いつもなら通販で済ませるのに、今回に限ってどうやら忘れたらしい。試しに「忘れた」と言ってみようか。途端に一人愉快な気持ちになった。簡素なカードキーを受け取って、携帯通信端末でメッセージアプリを呼び出した。「ホテルに着いた」。まもなく既読になって、すぐに返信が来る。
 何も怖いことはない。彼女が欲しいものは、全部俺が与えてやれる。そして俺が欲しいものも全部、彼女しか持っていない。だから、大丈夫だ。


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