V:靴について



 レコーディング二日目が呆気なく終了して、スオ〜とリッツがマネージャーの車で足早にスタジオを後にした。「今日何かあったっけ」と何の気なしに口にしたら、ナルが呆れた顔で「雑誌取材よ」と、まるで母親のような声色で告げた。
「セナも?」
「あら、……いいえ。泉ちゃんは何の予定も入っていなかったはずよ」
「ふうん」
 辺りを一度ぐるりと見渡したナルが心底不思議そうに首を傾げる。
「たまにはごはんでも誘おうかと思ったんだけどな」
「じゃあアタシがご相伴に預ろうかしら」
 汚れたスニーカーのつま先をエントランスに向けて、ナルを振り返った。ジーンズのケツポケットから取り出した車のキーをナルにかざしたら、ナルは笑顔で俺の後をついてきた。
「何か食べたいものあるか?」
「そうねえ、パスタが食べたいわ」
「それなら気に入ってるイタリアンの店がある」
「あら、王様のお気に入りのお店なんて珍しいわね」
 表情だけで笑ってみせる。随分前に、一度あいつを連れて行ったことのある店だ。その他では仕事の打ち合わせだったり、真っ直ぐ帰りたくない時に寄る。あまりいい思い出があるわけではないが、とにかく味はいい。
 食事が終わる頃、あいつも家に帰ってきてしまっているだろうか。なんとなく億劫な気持ちになって、くたびれたスニーカーのつま先でピカピカの床を軽く蹴る。


*


 数件目の訪問でインターホンに指を乗せたら、待ち構えていたように声が返ってきた。穏やかで、少し跳ねた声音だ。以前電話で話した時に「嬉しい」と涙声になっていたことを思い出す。
「先日お電話した、芸能事務所の者です」
『お待ちしておりました。すぐに開けますね』
 ごく普通の一軒家の玄関から顔を覗かせたのは、活発そうな外見の妙齢の女性だった。おそらくこの人物が、以前電話で話した方だろう。
「どうぞ入ってください」
「お邪魔致します」
 玄関のたたきで靴を脱ぎ、室内に上がってから屈んで靴の向きを変える。昨晩綺麗に拭いたエナメルのパンプス。走れる、美しい形のヒールはオーダーメイドの仕事だ。我に返ってバッグからフットカバーを取り出してストッキングに包まれた足に被せた。案内されてリビングにあがれば、向かい合わせの二つのソファの片方に、緊張と喜びがないまぜになった表情を浮かべる少女と、神経質そうな眼鏡が印象的な男性が腰掛けている。
「お電話でお話ししたように、お嬢様は弊社主催のオーディションに見事合格されました。本日はそのご報告と、今後についてお話しさせて下さい」
 大阪に来てからもう何度目かわからない切り口上が、滑らかに唇から流れ出る。テーブルの上にコーヒーカップを置いた妙齢の女性、母親がようやっと落ち着いたのを見計らって、にこやかに、淡々と今後の話を進める。オーディションに合格した本人は喜び100%といった雰囲気。隣の父親は安堵と不安と緊張がないまぜになった雰囲気。母親は娘を眩しそうに見つめている。
 ああ、なんて幸福な家庭だろう。一通りの質疑応答のあと、窓から差し込む太陽光が、静かに頭を下げる父親の眼鏡のふちをきらめかせた。


*


 新幹線の窓の外を勢いよく景色が流れていく。ぼんやりしていく頭は既にものを考えることを拒絶している。
 完璧に整えた髪に隙のない私服を着て、気に入っている革靴を履いた足を組んだ。人に見られる仕事をしている以上、どんな時でも怠惰な部分を他人に見られたくないと思う。イメージが大切だと、ずっと考えている。
 マスクの内側で小さくあくびを噛み殺した。彼女は今頃もうホテルにチェックインして一日の疲れから解放されているだろうか。それとも軽い食事中だろうか。疲れた日には一日の締めくくりに甘いカクテルを一杯だけ飲むことを楽しみにしている彼女のこと、もしかしたら現地でバーでも調べて一人でゆっくりとした時間を過ごしているかもしれない。
 ふと脳裏にとあることが浮かんで、平静を保ちながらそっと足元のボストンバッグを膝の上に置いた。なるべく音を立てないように、中を丁寧に検める。本当は中身を一つずつ外に出せば、あるのかないのかははっきりわかる。それでも、万が一隣の座席に人が来たらと思うとそんなことはできない。内ポケットの中、ブリーフケースの中、シャンプー類のボトルを詰めたケースの中、そのどこにも、目当てのものはない。ため息を吐きながらボストンバッグのファスナーを締めて、それから二つ折りの財布を開いた。高校生じゃあるまいし、こんなところにあるわけもない。高校生の時にだって、入れていたことはないけれど。
 バッグを少し乱暴に足元に戻した。新幹線がゆっくりと京都駅のホームに吸い込まれて行く。もう少しで新大阪だ。


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