これ以上やさしいものってないんじゃないかな

 ふらりと訪れた街中で影のような男を発見した。
 相変わらず何処を見ているのか分からぬ視線で人混みの合間を器用にぬって歩く姿は、幽鬼といっても差し支えない。実際彼自身の足で歩いているのか疑わしいが、見つけたからには逃がすなと本能が私の手足を動かし彼の元へと導いていく。
 黒いボロ布から出ているのは首から上だけで、その大半もうざったらしい長髪に覆われ夏場に見たくない姿ナンバーワンの座を不動のものとしている。
「太古から存在するアレと気持ち悪さ的には同等よね」
 駆除してもしきれぬ黒光りする害虫を思い浮かべると頭の部分が眼前の男にすり替わり、届かぬと分かっていながら思いっきり片手に持った雑巾を投げつけた。
「……また君か」
「偶然ですね、副首領殿」
「どうにも君の言葉には悪意が溢れているように思うのだが、気のせいかね」
「あら、副首領殿に向けられる感情に悪意以外のものって存在するんですか?」
 届かなかった雑巾はメルクリウスの足下で横たわり、彼の歩みを止める枷としての効果を十二分に発揮したことに私は満足感を得、改めて影の薄い男との距離を詰めた。
「こんな所で何してるんです? 貴方が外に出てるなんて珍しい」
「それは、君にも言えることではないのかな」
「私は良いんです」
 互いに仮面の笑みを張り付けながら会話をする様は酷く滑稽なのに、少しだけ彼との会話が楽しいなんて思ってしまう私もさぞやイカレているのだろう。
「それにしても――賑やかですね、ここは」
 色の溢れた世界に眼を細め、さざ波のように変わる景色に目を眇める。
「ミラ」
「はい」
 黒円卓でない私に魔名はない。
 私が彼に名乗った私の名を呼ばれることに少しだけくすぐったい感情を有し、気付かれぬよう柔らかな声色に混ぜて空に溶かす。
「君はなんなのだろうな」
「あら、珍しいお言葉ですこと」
 指揮者である水銀の王にも分からぬことがあるなんて、誰でも良いから教えてやりたい。全ての既知は手の内だと怠惰と完璧さを装って存在する男にも、不完全な部分はあるのだと。
「強いて言えば、私以上に貴方に優しい者ってないんじゃないですかね」
「…………」
「反論でもいいので、何か言ってくださいよ。流されっぱなしって辛いんですけど、そこのところ理解して下さってます? あ、もしかして今無駄だと思いました? 私と話してるのは無駄だと思ってるんですよね、この変質者!」
「……よく回る口だとは思うがね」
「あ、ちゃんと聞いてはいるんですね。なら許してあげます」
 だから、と言葉を切り三歩先に居る存在を見上げれば、鉱物のような無機質な瞳がこちらを見下ろしていた。光の加減で色味を変える瞳が綺麗だ、なんて告げたら鼻で馬鹿にされることなんて分かりきっているから。
「当たりなさい!」
 至近距離で投げつけた雑巾は寸のところで躱されてしまい、通算何度目かになるか分からない敗北が決定する。が、運命の神様とは皮肉なもので、メルクリウスの後方を歩いていた白い存在の顔面に音を立てて飛翔物がヒットした。
「あ」
 称えるべき被害者其の一が苛立ちと共に投げつけられた物質を確認し、ぐるりと顔を回す様を見ていたが、被害者である白い存在と視線が合ったと思ったのは一瞬ですぐに傍に立つメルクリウスを見、白い存在は盛大に秀麗な顔を歪める。
「分かってたんです?」
「さて」
 踵を鳴らし近づいてくる存在からどう距離を取るべきか。
「オイ、テメェ!」
 絵に描いたような顔面キャッチを披露した白い存在……黒円卓の一人であるヴィルヘルムが、使用済み雑巾を突きだし吼える。
「何しやが――ッ!」
「苦情はメルクリウスまでお願いします!」
 ボロ布のような黒いローブの裏に隠れヴィルヘルムからの視線を遮り、やるべきことはただ一つ。
「敵前逃亡! で、ございますわ」




「ほう」
 一呼吸の間に消えた存在を感じ取り、メルクリウスは感嘆の声を上げた。
「あの女はどうした」
 メルクリウスの裏側に隠れた存在を探すべく嫌々覗き込むが、ヴィルヘルムの求める人物は足跡一つ残さず消えており、彼女が居たという残滓すら見つけることが出来ない。
「さぁ」
「あぁ? テメェの知り合いじゃねぇのかよ」
「どうだかな」
 のらりくらりと躱すメルクリウスに盛大な舌打ちを落とし、ヴィルヘルムは握りしめた雑巾の感覚が手元から消え去っていることに気付く。
「あ?」
 疑念の音を上げたヴィルヘルムを視線だけで確認し、メルクリウスは長い前髪に隠れた片眉を動かした。
 未だ存在意義が確立しない、自らが広げた紙の上を器用に渡り歩く謎の女。
 解明したいと思う気持ちと、好き勝手飛び回るのを見ていたいという思いが半々。まるで、黄昏の女神に拝謁した時のような高揚感じみたものを感じ取り、それは間違えだとメルクリウスは自身の感情を否定する。
「ったく……テメェものこのこ出歩いてんじゃねぇよ」
「…………」
 俗っぽさを全面に押し出し猫背で歩き去るヴィルヘルムをつまらなそうに見遣り、雑踏を閉め出すよう瞼を下ろせば、漆黒に塗りつぶされた世界の中で白地に浮かぶ鮮やかな華が楽しげに踊っていた。
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