I'm back,Welcome back

 水底から浮き上がるような感覚に身を委ね、メルクリウスはいつの間にか閉じていた瞼を押し上げた。
 不鮮明な視界に映るのは見慣れた部屋の調度品で、視線の高さから自身が椅子に座っていたのだと認識する。緩慢な動作で頭を動かし、周囲に充満する乾ききった空気の匂いに開いた眼を閉ざした。
 メルクリウスを枯れ木のようだと称したのは黄金の獣だが、彼に対し乾いた大地の匂いがすると言葉を掛けたのは誰であったか。
 曖昧で不確かな自身を叱咤するような苛烈さで、華やかな空気を振りまいていたのは一体誰であっただろう。
 彼女が居ると憎悪の対象である既知すら色付いた。全てを包み込む黄昏の世界とは違い、明確な線引きを良しとした紅白に自分は一体どのような感情を向けていたのだろうか。
 知り得ているのに見つからない。矛盾に溢れた曖昧さを従えた未知の塊。
 果たしてソレは、なんであったというのか――。




「寝起きが悪いのね、メルクリウス」
 貴方が寝ていること自体珍しいけれど、と女は笑い、傍にいた女性に同意を求める。
 何気なく開いた視界に映る色は忌むべき既知に相違ないが、何故か安堵に似た感情が胸中を占める。以前もたしか自分は全く同様の奇妙な感情を味わったとメルクリウスは状況を整理し、己が中に蓄積された既知だと再認識する。
「珍しいものを見た。カール、卿もたまには休息を得てみてはどうか」
「その必要はありますまい、獣殿。だが、ご忠告胸に止めておきましょう」
 口元に弧を描き、影法師は用意された茶器に手を伸ばす。白磁とさほど変わらぬ色合いの細腕を前にし、相貌を歪めたのは対岸に座す女性だ。
「いくら食事が必要ないといっても、貴方は病的だわ。もう少し食事にしろなんにしろ拘りをみせてはどうなの? グルメなのでしょう?」
「左様。だからこそ、この茶ならば口にしても良いと思うのだよ、ミラ」
 当然のように滑り落ちた名にメルクリウスは動作を止め、仏頂面を晒す女性を視線だけで確認する。
 既知で溢れた世界に、一際鮮やかな深紅の軍服を肩から下げ、さも当然のように女は其処に在った。
 深紅の中から覗くのはチャイナ服と呼ばれる東洋的な衣装で、深く切り込まれたサイドスリットから伸びるのは健康的な両足。白地に散りばめられた花が女の呼吸に合わせて動く様は、一枚の完成された絵画のよう。
 ……だと、思ったのだ。
「どうしたの、メルクリウス。いい加減起きてはどう?」
 指揮者が寝てるなんて前代未聞と、紅茶に舌鼓を打ちながらミラが笑う。
 そんな彼女を横目で確認し、満更でもない風に表情を緩めるのは黄金の獣に仕えるメイドだ。
「君には私が寝ているように見えるのかね」
「ええ、だから話しかけているんじゃない。貴方が再び眠りにつかぬように」
「さすれば」
「答え合わせでもお望みかしら?」
 一連の会話から導き出された問題に場の空気が一転したのを感じ取り、黄金の獣とその従者は興味深く眼前の舞台を鑑賞する。
「といっても、もう分かっているのでしょう?」
 お茶のお代わりを受け取りながら第一球を投げたミラの攻撃を、メルクリウスは「さて」と相変わらずの曖昧さではぐらかした。
「元々隠してなんていないし、前々から言っていることだけれど、私以上に貴方に優しい存在ってないわよ?」
 いつかと良く似た単語に口元を緩め、ミラは新たに注がれた紅茶を口にする。良く飲み、良く食べ、良く笑う女だと嘲笑しながらも、つい視線を惹かれる原因をメルクリウスは考える。
「だってそうでしょう? 例外も勿論あるけれど、基本的に誰だって自分にはつい甘くなってしまうものだわ」
 ミラの提示した解答に背後に控えるメイドは息を呑み、上座から見物を決め込んでいた黄金の獣が感嘆の息を漏らす。
「やはり、そうであったか」
「気付くのが遅すぎるのよ、貴方は。あれだけ同じ位置に立てばいいって教えてあげたのに、人の忠告に耳を傾けないから答えを先延ばしにしてしまうのね」
「これは、一本取られたと笑うべきところなのかな」
「笑うも何も、単純問題を勝手に小難しく調理していたのは貴方でしょう?」
 そうだ、自分は彼女のことを既知の括りに無理矢理自らを押し込んでいるようだと。そして、それこそが滑稽の極みだと思っていたのではないか。
 散らばったピースが徐々に形を成し、いざ出来上がってみれば答えは至極単純なものであったと言わざるを得ない。
 改めて提示された解答にメルクリウスは嘲笑し、得た事実を満足気に噛みしめる。
「私は未知を求める貴方が無意識の内に切り捨て続けてきた残滓であり、メルクリウスという存在を嫌う全ての者の憤りや悔しさから成り立っている矮小な存在よ」
 鏡を使わねば自分の背中を見ることが出来ぬように、背後に、隣に存在し、座に据えられた神に空いた穴を埋め続けるための存在。
 横に並ぶ事が出来ぬピラミッドの頂点に在ったとしても、それらを包み込む天体に前後左右の観念はない。ゆえに、同じ位置に立つことが可能なのだとミラは謳い、蠱惑的な笑みで武装して穴あきの本体に銀のスプーンを突きつけた。
「ハイドリヒ卿が貴方の自滅因子で蓮君が貴方の息子ならば、私は貴方自身だわ、メルクリウス。元来、カドゥケウスとはそういうものでしょう。なぁに? 長生きしすぎて耄碌してしまったのかしら」
 人を食った笑みを浮かべる女は、黄昏の女神とはほど遠い位置にいる存在だ。
「ああ、そうであったな」
 だが、何処までも共に堕ちてくれる共犯者の、なんと心地の良いことか。
 指揮のような軌跡を描く銀の残滓を追いながら、メルクリウスは十年来の謎が解けた事に息をつく。
「お帰りなさい、メルクリウス」
 だから、突如かけられた想定外の内容に言葉を詰まらせてしまうのも仕方がないのであって。
「……ああ、このような場合はなんと応えるべきだったかな。そう、たしか、ただい――」
 音が完成する直前、「時は来たれり」と創られた世界が躍動したのは、はたして気のせいだったのだろうか。
 ようやくの訪れを前に、瞬間の歓喜を表現する言葉を知らないとミラは薄い笑みを口元に引いた。
 一分の隙もなく組まれた術が発動し、ありとあらゆる負の感情を総動員したトラップが起動する。生涯一度のタイミングを逃すことなく優雅とすら思える滞りのなさで空を舞った金属は、己に課せられた使命を全うすべく重力に従い落下する。
 ゴン、という鈍い音から少し遅れ、円形を模した金属が嘲笑うかのように床の上で甲高い音を響かせ消えた。
 何が起こったのかと固まるメイドとは裏腹に、黄金の獣は惜しみない喝采を贈り、発動者であるミラは呆然とした雰囲気を纏う水銀の王へ向けガッツポーズを決める。
「この時を待っていたわ! どう、未知の感覚は? 何度も話し合いをし考えて今日のために舞台を整えたのよ? 私達の愛、気に入ってもらえたかしら? メルクリウス」
 ミラが話す「皆」が黒円卓のメンバーであることは想像に容易いが、一矢を報いる為の舞台から黄金の香りがするのも気のせいだと片付けても良いものだろうか。
「お聞きしてもよろしいかな、我が親愛なる獣殿」
「なんだ、カール」
「此度の一件、貴方が関わっていると私は踏んでいるのだが」
「さて、どう答えるのが卿の筋書きなのだDirigent」
 指揮者たる存在が二人いるのに、タクトを振るうのは一人だけだと思い込むのは個人の勝手だし、壇上にいるのに気付かぬ方が愚かなのだと女は嗤う。
 ひとしきり笑った後、メルクリウスと良く似た笑みで口元を彩りながら「そうですねぇ」とミラは続く言葉を紡ぎ出した。
「良い、これ以上の茶番に付き合う暇はない」
「お気に召さなかった? やはり金だらいよりも牛乳に浸した雑巾のほうが良かったかしら」
 ミラの言葉を途中で遮り、メルクリウスは幽鬼のように重力を感じさせぬ動作で立ち上がる。
「ミラ」
「はい」
 良く似た雰囲気の二人が、鏡合わせのように動く様は見ていて面白いと黄金と従者は思う。
 光の裏には影があり、影の裏には何もない。
 何故今まで気付かなかったのかと疑問に思うほど酷似した魂を持ちながらも、見落とし続けていたのはおそらくそういうことなのだろう。
「君の素性がはっきりしたところで、手加減はいらぬな」
「あら、手加減してくださってたの?」
「女子供には優しいのだよ」
「チープで虚偽に溢れた台詞ね。三文役者は舞台から退いた方がよろしいのではなくて?」
「ふっ……ふはははッ! 然り然り、君の言うことはもっともだ。なればこそ、私とて君が示した慕情に応えねばならんであろう」
「あら、意外と情熱的なのね。しびれちゃうかも」
 毒牙が身に食い込み倒れるのが先か、はたまた望みの成就が先か。




 揺れるグラズヘイム。歌劇は未だ、終わらない――。
*<<>>
BookTop
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -