月曜日の私

 宗像礼司にとって天乃紗代という音は特別な意味を持つ。
 幼い頃宗像の意識に住み着いた色は褪せることなく存在し続け、今でもふとした瞬間に過去の若すぎる衝動に苦笑したくなる時がある。
 若気の至りというには若すぎて、無かったことにするには勿体ないと思ってしまう程度には、大切で大事だと分類出来る記憶。
 凜とした立ち姿に優しげな雰囲気を纏った、大人の女性という単語がしっくりくる存在は一目で宗像の視線を引き、馬鹿らしいと一蹴するに相応しい言葉を宗像の口から引き出した。純粋で真っ直ぐな言葉を受けた女性からの返事は当然のことながら「否」であったのだが、子供である宗像に視線を合わせるよう腰を屈め、白く細い指先を宗像の頬に添え両目を細めながら、好意の単語を口にした宗像に言い聞かせるよう色づいた唇を震わせたのだ。
 『あなたが私と同じくらいの年齢になった時に、もう一度同じ言葉を言ってくれたら考えるわ』
 断りの常套句のような音を告げられた宗像に返す言葉は無く、ただ黙って女を見つめ続ける子供に対し、女のとった態度は正しいともいえるが、その態度こそが幼い宗像の心に消えない傷を残したと言っても過言ではない。
 いつか、とかもしも、などといった仮定の単語は己を縛るだけの鎖だと理解しているにもかかわらず、完全に捨てきれないのは未練という感情が働いているせいだろうと、宗像は自身の内面を客観的に判断する。
 宗像の淡い恋が散ったのが数十年前の出来事であり、当時成人していた女性は今頃幸せな家庭を築き老後の生活を視野に入れている事だろう。
 報われない過去だと理解しているからこそ、忘れずとも良いのではないか。
 そう己に言い聞かせ年齢を重ねてきたというのに、まるで過去を蒸し返すかのように特別な意味合いをもつ色が視界に入り、入隊希望者の書類を持ってきた淡島が思わず声を掛ける程度には、常の宗像らしからぬ雰囲気を醸し出していたから。
 秩序と制御を司る青の王らしからぬ欲目に似た何かを、宗像は言の葉に乗せて第三者に告げてしまったのだ。



 普通、庶務課に配属された人間は青の王直々に命令されないし、王としての力を分け与えられる事は無い。東京法務局戸籍課第四分室として与えられた場所に詰め、ひたすら自らに与えられた作業をこなすことが内勤の人間達に求められる能力――のハズなのに。
「天乃さん、これ……」
 猫の手も借りたいほど忙しく働いている己の状況を顧みると、確実に支払われてる給与に見合わない気がするのは、多分……いや、確実に気のせいではない。
 恐る恐るといった風に差し出された書類を一瞥し、舌打ちと共に「置いておいて下さい」という単語を発すれば、触らぬ神に祟りなしと言いたげな速度で道明寺さんは自分のデスクへと戻っていった。
 そもそも、私がこの職場を選んだのは、公務員という単語がもたらす安定性に惹かれたからだ。それ以外に理由はなかったし、何よりこんな訳の分からない職場だとは思いもしなかった。
 普通の人間とは到底思えないような存在が引き起こした事件なら、過去に遭遇したことがある。たまたま買い物に出ていた繁華街で奇妙な能力を使う人間を見たけれど、入社――否、入隊志願する書類に自分の過去などわざわざ記載しないし、面接官としての役割を与えられた存在も誰がどんな体験をしてきたなど分からないだろう。
 特殊能力を操る存在の事をストレインと呼ぶ、という知識は入隊してから付いたものだし、就職を希望した当時の私は知るよしもなかった。
 だから、一般人代表のような私が対能力者治安維持組織に配属された意味も分からないし、青のクランと呼ばれる一員になったにもかかわらず、戦闘能力が皆無な私の立ち位置は常に微妙なままだ。
 王たる存在から力を与えられた者は何らかの能力が上昇するらしいが、どうやら私の場合それが事務処理能力にのみ向かったらしい。らしい、というのは私が前線に出ないからで、現場に行けと命令もされなければ戦闘を強いられる事も無いので、与えられた部屋に詰め大量の書類と睨めっこしているのが私、天乃紗代の落としどころだと思っている。
「またですか」
 ぽつりと落とした言葉に、斜め前のデスクに座っていた布施さんがビクリと肩を揺らした。
 セプター4として様々な異能と戦闘を繰り広げるのは職務上仕方ないし、何らかの被害が出てしまうのも仕方がないと思う。
 が、しかし。
 彼らが力任せ……いや、一応仕方なく壊したと思われる建物や公共の器物。それに周囲に敷いた検問等々、掛かった費用の処理をするのは誰だと思っているのか。
 仮にも公務員たる私達の給与や修繕費には国民の税金が充てられるのであって、無駄に浪費して良い訳ではない。
 一つの戦闘が終われば様々な損害が出るのは当然で、その度に隊員の人達が書く報告書と外部から届けられた支払い請求を照らし合わせ差違が無い事を確認した後、報告書を纏めて大まかな損失額を上に報告しなくてはならない私の身にもなってほしい。
 青の王であり、室長の二つ名で呼ばれる宗像礼司への報告ならまだ良いが、セプター4を良く思っていない形だけの上役に報告書を持って行く時が一番胃が痛くなる。
 悪意を向けられるのに慣れるはずもなく、ボキャブラリーが貧困だな、と思ってしまう程度には代わり映えのない罵りを受ける事にも慣れはしない。それでも、決められた物事をちゃんと処理しないと公務員としての立場がないので、これも職務と割り切って耐えることにしている。
 他にも諸経費など、隊員の人達から上がってくる大量の領収書と格闘しなくてはならない月末になると、自分の機嫌も態度も急降下している自覚はあるが、強制的な睡眠不足を強いられるせいで余裕がないのだと理解してもらうしかない。
 何故経理担当が一人しかないのかと素朴な疑問を抱いた事もあったけれど、本来この部署に経理という存在は必要ないのではないか。情報課と庶務課という内勤メインの部署があるのだから、お金の管理はそちらの隊員に割り当てられる仕事であり、わざわざ撃剣機動課特務隊に席を置く人間がやるべき仕事ではないだろう。と、そこまで考えると、何故私が件の特務隊にいるのかという疑問が持ち上がる。
 庶務課に配属という通知を受けたのは幻だったのだろうか?
「天乃さん、夕飯はどうするの?」
「……適当に食べますのでお気遣いなく」
「おい、今の天乃さんに話かけんじゃねぇって」
 忙しい時は不機嫌になり、それが態度に現れる事から「女版伏見」と非常に腹の立つ呼称で呼ばれる事も少なくない。自分を棚上げしているような気もするが、あんな年中無休不機嫌になっているのが仕事です、と言えそうな伏見さんと一緒にしないで欲しいと心の底から思う。
 無意識のうちに舌打ちが出てしまう事も多々あるが、伏見さんほど酷くはないはずだ。
 戦闘に出られるわけでもない。剣を握れるわけでもない。それなのに、どうして宗像室長は私なんぞを特務隊に組み込んだのだろう。
 副長として忙しく動いている淡島さんとはここに入隊する前からの知り合いではあるが、そんな繋がりをあの室長が考慮する訳がないし、むしろ排除対象として考えていそうな気すらする。
 伏見さんや秋山さん達のように、室長直々にスカウトされたわけではない。
 普通に一般試験を受けて入隊してきただけの人間が、どうやったら王たる存在の目に止まるのだろうか。
 遙か高みから見下ろしているような存在に、浜辺の砂粒など判別出来るわけがないのに。
「苛々するなぁ」
 今の感情を音に乗せ吐露すると、再度布施さんの肩が大きく揺れた。
 机の両脇に積まれた書類は一日二日では片付かないだろう。毎日なにかしらの書類は増えていけど、設けられた締め切りとの延長戦は認められず、鉄壁の防御として一月の終わりに君臨し続ける。
 この山を越えればのんびり出来る。
 それだけを楽しみに怒濤の勢いで書類を処理し続ける事、早一週間。常に燃料切れとの戦いが勃発している私の机上には、空になった栄養ドリンクの瓶が所狭しと並んでいる。
 一日に飲んで平気な限界量など知ったことではないが、とにかく今は目の前の敵を討ち果たす事のみに全神経を傾けねばならない。
 みっともなく腹が鳴ろうとも、目の下の隈が悲惨な事になろうとも、片付けてしまえばこちらの勝利だ。
「ね、ねぇ……天乃さん。手伝おうか?」
 先程からこちらを気にしていたらしい布施さんが声を掛けてくれたけれど、なるべく剣呑な対応にならないように注意して断りの言葉を口にする。
「そういえばさ、天乃さんてどんなに忙しくても他の人を頼ったりしないよね。それってやっぱり、仕事への情熱とかそういうやつ?」
「……違いますよ」
 反射的に漏れ出そうになった舌打ちを咥内に留め、布施さんの背後から声を掛けてきた道明寺さんへと視線を移す。
 私が頑なに他者の手を拒むのには訳がある。
 入隊し、上司たる宗像礼司へ挨拶に行った際に言われた言葉が、今も耳の奥底にこびりついて離れない。たしかに私は淡島さんのように身体を鍛えているわけでもないし、今までの人生の中で物騒な刃物は包丁くらいしか手にした事がないけれど。
 薄い笑みを貼り付けたまま「貴女はここでやっていく自信がありますか」と、何の感情も宿さぬ声を向けられたとあっては腹が立つのも当然だろう。
 何のために配属されたのかその理由を与えられる前に職務放棄を示唆されるなど、馬鹿にしているにもほどがある。
 だから、与えられた仕事を全てこなして、あの時向けた言葉を後悔させてやるのだと。
 そう思い続けて仕事と向かい合っていたら、もう一年以上この場所に腰を落ち着けているのだと気付いてしまった。
「駒には駒なりの耐久度があるんだと、知らしめてやろうかと思って」
 すぐ壊れると手を伸ばそうとしない、あのいけ好かない青の王を見返してやる。
 あんたが思っているほど駒はひ弱じゃないし、駒には駒なりの意地があるのだ。
 王だから、と全てを見下しているような存在に、いつかチェックメイトをお見舞いしてやる為にも、ありえないほどの仕事を押しつけられたところで自分という存在を潰す事は出来ないのだと、相手の考えをまず否定しなくてはならない。
「えっと……それってどういう事?」
「たんなる意地の張り合いですよ」
 そういって口角を上げたら、側に置いてあったタンマツに映った自分の顔に、伏見さんの面影があるような気がしてしまったので、何気ない動作を装い待機中の黒い画面を反転させ、机上へと押しつけた。
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