幸せのその後

 一ヶ月という短いスパンで性格が豹変するともっぱらの噂である天乃紗代を食堂で発見し、日高はどう対処すべきか逡巡した。本人曰くアンチエイジングに成功したらしい紗代は、日高の上司にあたる伏見猿比古と同じくらいの年齢に見える。
 正式に特務隊の一員となると同時に、セプター4の室長である宗像礼司と恋人同士になったと威圧を掛けられたのは数日前の出来事だ。当時の事を思い出しただけで全身に奇妙な悪寒が全身を駆け巡ったのを悟り、やはり自分にとって紗代という存在は鬼門にあたるのでは、と踵を返そうとした日高を縫い止めるよう、件の人物が日高を見つめている事に気付き、日高は腹をくくり紗代の前に空いていた空席へとトレーを持ち腰を下ろした。
「あのよ」
「はい、なんしょう」
 月末が近づくにつれて紗代の機嫌は急降下の一途を辿っており、それは紗代が庶務課所属でありながら特務隊の情報室に詰めていた頃となんら変わらない。
「お前、どっか行ってたのか?」
 漠然とした日高の問いに瞬きする女は歳相応に見える。
 以前は自分よりも少し上に見えた存在が、己よりも若く見えるという事実がなんだかこそばゆい。そのせいで紗代に対する口調が多少砕けたものになっている事に気付かず、日高は紗代が情報室から消えていた半年の謎を解明すべく疑問を投げかけた。
「旅行……に行っていたという事にしてください」
「なんだそれ」
「精神的なアレソレをちょっと?」
「はぁ?」
 意味が分からないと思いつつも、当人がはぐらかした事を追求する権利は日高にない。もし追求が許されるとしたら、信じられないが恋人という肩書きを持つ宗像か、紗代と距離の近しい伏見くらいだろう。
「日高さん」
「え? あ、なに?」
 脳内で紗代と宗像のツーショットを思い浮かべ、逆立ちしても二人がデートをしている光景が想像出来なかった日高の意識を引き戻すよう、若干目の座った紗代が日高へと一つの質問を投げかける。
 聞き慣れた、少しばかり苛立ちを含んだ声で落とされた質問に特別は意味は無いと判断した日高は、特にこれといって気構えする事もなく軽い気持ちで紗代の質問に回答した。
 それが、三日前の出来事。



「はぁ……」
 やってもやっても終わらない仕事を前に、疲労感と苛立ちはとっくの昔に限界値を突破した。
 職場に復帰してからというもの、以前にも増して書類整理が増えたというか、後から後から中途半端な報告書その他諸々が発掘されるせいで、私の仕事は常に満員御礼、帰省ラッシュもびっくりな乗車率百パーセントオーバー状態だ。
 物理的に机上へ積むことの出来なくなってきた書類の山は、いつの間にか用意されていたカラーボックスに収まり今はすぐ横の床に積み重ねられている。その数おおよそ六つ。この中身が全て誰かが作った中途半端な書類なのかと思っただけで、ストレス性胃炎になれそうだ。
 いっそお焚き上げでもしてやろうかと思ったけれど、私が居なかった頃の出来事を捏造する方が手間のような気がしてしまい、淡くも攻撃的な目論見は泡と消え去った。
 私が復帰した事により伏見さんに余裕が出来たのか、それとも居ない間の状況が悲惨なものだったのかは分からないが、周囲の特務隊員きっての願いで、最近の伏見さんは定時退社を強制されている。
「理不尽」
 伏見さんが定時退社すると、必然的にこちらの仕事が増える。
 私ならこき使っても良いという精神を保有しているのが誰なのかは分からないが、これがもし我らが上司宗像室長からの指令だとしたら、一度肉体言語で語り合いたいと思ってしまう程度には苛立ちが溜まっていた。
「なんなの、半年分の仕事を一気にさせようっていうの? 馬鹿じゃないの、言い出しっぺは誰なのよ。一度グーで殴らせろって話だわ本当に」
 誰も居ない事を良い事に、愚痴を垂れ流しながら書類と向き合うのも飽きてきた。
 現在特務隊の面々は市街地で発生した異能騒ぎに駆り出されており、日頃は煩い情報室には私が一人で取り残されている。
 静かだと仕事が捗って良いと思っていた時期もあるが、今はあの騒音が懐かしいと思ってしまえる程度に精神が疲労を訴えていて、何本目になるか分からないエナジードリンクのプルタブを押し上げながら、何故コンビニで売っているコレ系のドリンクは全て炭酸入りなのだろうかと考える。
「味の問題?」
 試しに炭酸の抜けたドリンクの味を想像してみると、舌に残りそうな不快感を与えてきそうな味のような気がして、開けたばかりのドリンクを一気に半分くらいあおった。
「苛々する」
 私が元々どういった類の存在であったのかと知るのは一部の人間のみに留められているようで、以前ネタ晴らしをした時に居なかった人達にとって、私は今でも機嫌の差が激しい天乃紗代という事務処理要因だ。
 そのことを不満に思ったり不快に思ったりはしないけれど、宗像礼司という人間の恋人という目で見られた途端、形容し難い感情が胸中を過ぎり視界にある全てを破壊したい衝動が沸き上がってくるのは何故だろう。
 告げられた好意を受け入れ、返したのは私であるはずなのに、あの時のやりとりが嘘のような虚無感じみた感情が胸の中央に居座り退いてくれない。
「あーもう、なんか嫌になってきた」
 赤の王たる周防尊が抱いていた負の部分を背負ったせいで、私と現赤の王である周防さんの間に何らかの繋がりが発生してしまったらしい事に気付いたのは、復帰後すぐに室長である宗像礼司がいつもと変わらぬ薄い笑みを貼り付けたまま「羨ましいことですね」と私の苛立ちを揶揄したからだ。
 周防尊の抱えていた激情や破壊衝動の一部がこちらに流れているせいで、最近の赤の王のヴァイスマン偏差はひどく安定しているらしい。
 その御陰で赤と青の対立も頻度が減ってきてはいるらしいのだが、周防さんが前面に出て力を振るうと、私の苛立ちが一気に限界値を超え仕事に支障が出始めるのが最近の悩みだ。
 時々窓の外に出現する王権者の証である巨大な剣は、以前とは違い完全な形で宙を漂っている。
 それを目にする度に安堵する反面、やはり全ての根源たる石版を破壊するにはどのような手段を用いればいいのかと考えてしまい、月一の支出報告の際に中尉殿へ愚痴ってしまうのが、目下抱える私の悪癖だ。
「あつい」
 カウントも忘れたくらいのため息と共に打ち込んでいた書類をどかし、生温い机上に突っ伏し頬を当てる。こんな姿他の人に見られたら一発で笑われそうだけど、煮えたぎるマグマを必死で冷ましているこちらの心情も少しは汲んで頂きたい。
 外界にのさばっていた熱気はなりを潜め、そろそろ冬支度が始まるかという季節が到来したというのに、身の内に巣くっている熱源が空気を読むことは一生ないのだろう。
 これもそれも全て己の撒いた種だと諦めてしまえれば簡単なのに、上手くいかないのが人の心というもので。
「おや、お昼寝中ですか天乃くん」
 涼しい音と共に現れた室長と、その後に続く特務隊の面々から察するに、携わっていた案件は一段落ついたのだろう。
 ああ、これでまた私の元に書類仕事が舞い込んでくるのだな、と考えてしまうと、怒りとやるせなさと疲労感が仲良く肩を組んでラインダンスをしている光景が瞼の裏を占領する。
「お昼寝したいです、宗像室長」
「お、おい……天乃、お前流石に……って、あ……」
 何かを察したらしい弁財さんが口を噤みあからさまに視線を逸らしたことから、私が今抱えている仕事の中に弁財さんが関与しているものもありそうだ。
「天乃くんは半年ほどお休みしていたのですから、まだまだ大丈夫でしょう」
「ソウデスネ」
 伏見さんがいないせいで、この場に私の味方となってくれそうな人間は存在しない。
 誰も彼も青の王たる室長の味方という現状に勝ち目を見出すのは難しいけれど、負け戦は私の性に合わない。これはきっと赤の王という存在が有する攻撃性のせいだろうと自身に言い聞かせ、視界の中で横になっていた姿をきちんと捉える為、温くなった机上から顔を上げて重い腰を上げた。
 音を吸い込む短い毛足のカーペットを踏みしめ、両手を背後で組んだままこちらを見つめていた室長の前に立ち、僅かに空いていた胴と腕の隙間から両手を差し込んで薄い身体に抱きつく。
「ちょ、なっ、天乃ッ!?」
「な、何をしてるんだ、お前はッ!」
 長身の向こう側から響いていくる秋山さんと弁財さんの声を聞きながら、服越しに聞こえる心音に全神経を集中させると気の抜けた息が漏れた。
「はぁ……」
「気が済みましたか、天乃くん」
 緩やかな青が触れた部分から浸食してくると、精神に負荷をかけていた赤の力が沈静化していくのを実感する。今更ながらに青の王の力って凄い、と感動に似た感想を抱きながら、この力に触れたくて周防さんは室長に突っかかっていたのだろうかと仮定してみたら、なんだかとってもしっくり来てしまって、先程までとは違う感情が青さの合間を縫って湧き出るのを感じた。
「はい、気が済みました」
「では離れて頂けますか。私も暇ではないのですよ」
「はい、離れようとは思ってます」
 けれども、この心地を手放すのが惜しい。
 人を駄目にするという肩書きを持つクッションを抱いたら、こんな感想を抱くのだろうかと考えてしまったら、世間に出回り口コミ一位を叩き出している商品がひどく恐ろしいと思ってしまった。
「天乃、いい加減にしたらどうだ」
 困ったような秋山さんの声を受けながら、僅かに身体を離し側にある涼しい顔を見上げてみる。
 薄いレンズ越しの瞳には何の感情も宿っていないし、相変わらず室長の手は背後で組まれたままだ。まるで、私という存在が居ないとでもいうような態度を晒されても悲しいとは思わないけれど、何故か――小さくも鋭い小骨に似た何かが喉の奥に刺さっているような気がして、離れがたい。
 青の王との取引はすでに終わっている。
 となれば、今私の行動を阻害し、この場に留まらせている要因はなんなのだろう。
「室長」
「どうしました、弁財くん」
「はっ、その――」
 言い淀んだ弁財さんの声を聞くと、収まっていた衝動が顔を覗かせる。
 総てを破壊尽くしたいと声高らかに叫ぶソレは、赤の王に付随されてしまった狂気であり、私という人間が初めて抱いた強く醜い感情だ。
 何故それが同僚である弁財さんに向けられるのかは分からないけれど、私を見下ろしたまま部下たる存在に受け答えする室長が気にくわない。
「……」
 気にくわない、とは一体どういう意味だろう。
 自分で抱いた感情であるのに、自分の手から離れ何処か遠くをほっつき歩いているように感じるソレ。契約を交わす為だけに恋人という単語を使ったのではないかと邪推してしまうほど、私達の間には何もない。それを悲しいとも、辛いとも思った事は一度たりとてないのに。
「宗像室長」
 私の声を正面から受け止めた青の王は、相変わらず凪いだ瞳でこちらを見下ろしている。私の内面に吹き荒れている何かを見透かしているように、口元に月を湛えたまま私の発言を待っているような姿を見ていると、今まで使ったことの無い単語が脳裏を過ぎっていった。
 自分だけの物にしたい。自分を優先してもらいたい。
 対象を隠し、先日何気なさを装って現在の心境を日高さんに吐露してみたところ、「それって嫉妬じゃねぇの」という至極明快な回答を得られたのだが、まさか今になってその回答を持て余すはめになるとは思いもしなかった。
 人として当然のごとく持ち得る感情を、目の前の青さは有していないのだろう。
 それが分かっているからこそ、辿り着いた単語を口にしたら空回りする未来が待っていると理解出来るのに。
「他の特務隊の人に嫉妬してたみたいです」
「おや」
 言わないと決めた単語は私の意志をすり抜け口から落ち、音を聞いた秋山さんと弁財さんが室長の背後で固まる気配がまざまざと伝わってきてしまい、自己嫌悪が酷くなる。
「私も室長と一緒に行動したいです」
「きみとは勤務内容が異なりますからね」
「勤務中じゃなければいいんですか?」
「私に暇があると、きみはそう考えますか」
「いいえ」
 暇がないから職場に趣味を持ち込むのだと言ってみせた青の王に対し、お前は暇だらけだろうと突っ込める人間がいたら見てみたい。いや、伏見さんなら既に苦言をしていてもおかしくはないのだが、セプター4のツッコミ役である伏見さんが不在である現状では、室長の言葉を批判するだけの力を有する者は存在しな――。
「ふむ、天乃くんの為に時間を作りましょうか」
「え?」
「え?」
 室長の背後に居る二人が完全に固まったのを空気で悟ると同時に、今までは存在しなかった温もりが背中に回されていたのに気付いた。
「室長?」
「不誠実ではないと理解して頂かなければいけないようですから」
 職務中に抱き合っているような光景は、不誠実の内に入らないのだろうか。
「赤の王が安定しているのは、きみの御陰でしょう」
「ご褒美をもらえるんですか?」
「いえ、私が、きみを甘やかしたいと思ったので」
「甘やかしてくれるんですか?」
 宗像礼司という男と、甘やかすという単語が上手く繋がらないせいで、脳内の演算が間に合わない。
「私はちゃんときみが好きですよ、天乃紗代くん」
 間近で落とされた台詞が、刺さっていた小骨を洗い流していく。
「それは、私が抑止の役割を果たしていなくてもですか」
 赤の王、周防尊の破壊衝動を一定量引き受けることにより、ダモクレスダウンの危険性が激減した事に対する報酬なのでは、と一瞬考えた私の思考を読み取ったのか、室長は私の背に回していた手を両頬に移動させ、滑らかな指先で私の輪郭をなぞる。
「言っていませんでしたか。きみは私の初恋なんですよ」
 顔を近づけ言い聞かせるように落とされた音は、水面となって内面の焦燥を綺麗さっぱり消し去ってしまった。
「室長にも、初恋とかあったんですね」
「きみは私をなんだと思っているんです」
「青の王、宗像礼司……いえ、ちょっとばかり風変わりな私の恋人、ですかね」
「及第点ということにしておきましょう」
 天乃くん、と心地の良い音が耳朶を滑ったと感じた瞬間、小さな温もりが唇に触れ去っていく。
 何事も無かったと日常に戻るハズだった私の世界に色が付き、総てを燃やし尽くす温度とは別の温かさが胸の内に火を灯す。
「室長」
「どうしました、天乃くん」
「お急ぎ、ではなかったんですか」
 未だ眼前に立ち続けている室長を見つめながら、暇ではないと告げられた言葉を思い出してみたのに、先程こちらの行為を否定するような台詞を紡いだ男は「予定変更です」と、あっさり時間配分を変えてみせた。
「今日はきみに付き合う事にしました」
「でも、お仕事があったのでは」
「秋山くんと弁財くんなら既にいませんよ」
 促され室長の背後を確認してみると、二人の青年は忽然と姿を消していた。
 いつのまに、と思う私の眼前で室長は再び背後で両手を組み、私に対し伺いの言葉を口にする。
「さぁ、何をしますか天乃くん」
 抑揚のない声色と、間近に存在する生温い温度が心地よすぎるから。
「お昼寝したいです、宗像室長」
 思わず数分前と同じ欲を口に乗せてみれば、「では、そうしましょう」と上司たる王の許可が降りた。
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