後編

 床も、壁も、天井も、酸素も、重力すらあるのに、出口だけが無い空間。
 図書館を模したと思われる空間には、天井まで伸びる無数の巨大な棚がいくつも存在し、その全てに年期を感じさせる本がぎっしりと詰まっている。試しに一つ手にしてみようと試みたが、無理矢理詰め込まれたのか触れた本はびくとも動かなかった。
「ったく……何処だよ、ここ」
 空間自体はさほど広くないが、窓も出口もないとなると話は別だ。所在不明の空間に長居するほど酔狂ではない。と内心で毒づきながらも、異質な空間に留まり続けるのには訳がある。
「くそっ!」
 女神の守護する地へ帰るべく力を振るうのに、他の力に遮られ目的を果たす事が出来ない。小宇宙で呼びかけてみても導き出されるのは同様の結果。
「……タチ悪ぃ……」
 スニオン岬の方がまだましだ、と思えてしまう程神経を逆撫でする空間。一体誰が何の為に創ったのだろう。存在自体を壊そうと放った技は塵となって消えてしまうし、出ようと願っても出られない、隔絶された空間。
 仮にも女神の聖闘士である自分の力が全く通用しないとなると、ここは一体誰が守護する空間なのだろうか。せめて存在する場所さえ分かればどうにかなりそうなのに。
 重い溜息混じりに、再度破壊工作を試みようと構えれば。
「お、遅くなりました……!! ごめんなさい!」
 想像すらしなかった声が耳に届いた。



 後少し遅かったら、やばかったかも。
 目の前でいまにも奥義を放とうとしているカノンさんを見て、思わず息を詰めた。私を見て驚いている表情とは裏腹に、苛立ちのオーラが全身を包んでいる。
「……何故貴様が居る」
「……っ」
 押さえきれない怒りを含んだ声は、充分過ぎる程恐怖心を揺さぶった。私の中に微かな怯えを感じ取ったカノンさんは、更に舌打ちを一つ。私達以外には音一つない空間を、カノンさんの怒りが振るわせる。
「あ、あの……カノンさん」
 落ち着いて下さい。という言葉は咽にひっかかり、声とならずに呑み込まれる。つい先日までただの人間だった私にとって、聖闘士であるカノンさんの怒りは、恐ろしい。
「沙希」
「は、はいっ!」
 声が裏返ってしまったのは、この際許して欲しい。
「答えろ、何故、貴様が、ここに、いる」
 わざわざ単語を区切りながら問いつめてくるカノンさんの声に、背筋を冷たいものが流れた。すでに不機嫌……どころの話ではない。私が返事を間違えようものなら、最悪の事態すら招きかねない緊迫感。
 慎重に言葉を選んで、的確に相手に伝えなければ。
「まず、今カノンさんの居るこの空間が何なのかから説明します」
 全てはそれからだ、と考えたのは間違いではなかったようだ。一瞬カノンさんの眉が動いたが、反論もなく腕を組みこちらが喋り出すのを待ってくれている。
「ここはクロノスの所有するデーターベースで、現在までの記録を保管してあるんです」
 膨大な量の本には太古の昔より綴られてきた記憶、が全て記録されている。それこそ単なる日常記録から、戦闘方法など多岐に渡る訳だが。
「カノンさんが何故ここに迷い込んでしまったのかは分かりませんが、原因の一つとして私の異空間を通過した際、力の片鱗が体に付着したのかもしれません」
 だからクロノスの所有する空間に引かれてしまったのだと。
「……大筋は分かった」
 カノンさんから肯定の言葉が聞けたので、ようやく一息つくことが出来た。
「だが」
「え?」
 ギラリ、と音がしそうな程鋭い眼光でこちらを見据えるカノンさんに、今一度背筋が伸びる。
「沙希、お前は何者だ」
 そこで初めてカノンさんが私の素性を知らない一人だと気が付いた。サガさんと同じ顔だったので、つい知っているものだと認識していた私の落ち度。
 苛立ちを全身で表現してくるカノンさんに、以前シオン君達にした説明を一語一句間違えずに話せば、ならお前は神なのか? とカノンさんが問う。
「いえ、神というカテゴリには分類されません」
 あくまで自分は補佐、おまけのようなものだ。ただ……すこしばかり、豪華な、おまけ。そう説明すれば、カノンさんの表情が僅かに曇る。何か気に障る事でも言っただろうか? と思考を巡らせれば、代々双子座の聖闘士は片方がスペア的な役割を担っている事を思い出した。
「で、俺はここから出られるのか」
 クロノス以外の力を良しとしない、絶対的な空間から出る術は……一つだけ。
「方法は……ある、には……あるんですが」
「ならさっさとしろ」
「うっ……」
 言葉に詰まる私を怪訝そうな顔で見つめてくるカノンさん。
「なんだぁ?」
「い、いえ……その……」
 急に歯切れの悪くなった私に、不審な視線が突き刺さる。
 あるには、ある。一つだけカノンさんをここから出す方法が。それを駆使しなければならない事も……分かってる。
 だけど。
「まさか……俺を殺す、とかか?」
「ち、違いますよ!! 全然! 物騒な事なんて!!」
「じゃあなんだよ」
「そぉ……れは……」
 視線を泳がせる私に、カノンさんの苛立ちが募っていくのが分かる。
「おい、沙希早くしろよ」
「わっ分かってますから……!! 後5分……! い、いえ、後2分だけ待って下さい!!」
 明確な時間を口にすれば渋々カノンさんは口を噤んだ。
 カノンさんがここに紛れ込んでしまったのは、私にも原因がある……と思われる、し……。なんとかしなきゃいけないのも、分かってるけれど……けれど……!
 心の準備が、全然出来てない。
 落ち着け、落ち着け、沙希。お前はいつだって難局を切り抜けてきたじゃないか! 受験然り、就職戦争然り。それに比べれば、今一瞬で終わる事なんて可愛いものじゃない。
「……2分経ったぞ」
「だああっ!! 分かりました! 分かりましたから……!!!」
 そこを動かないで下さい! と指を指しながら叫べば、呆気にとられた顔でカノンさんは後ろの本棚に寄りかかった。
 息を吸って、吐いて……。
 早鐘のように鳴り響く心臓を押さえながら、カノンさんとの距離を詰める。
「沙希?」
「……なんですか」
「いや……別に……」
「なら黙って下さい」
 抑揚の無い声で言えば、おう。と反射的に発せられた声が耳に届く。
「カノンさん、ちょっと」
 後少し、という微妙な距離で私は立ち止まり、カノンさんを軽く手招きした。
「カノンさんて、生粋の女神の聖闘士じゃないんですよね?」
「は?」
「海界にも席を置くって聞いたんですけど」
 棚から身を起こし、こちらに向き直ったカノンさんから発せられるのは肯定の言葉。
「もし、気分が悪くなったり、体に不調が出た場合は、すぐに。言って下さいね」
 すぐに、という部分を強調して言えば、良く分からねぇけど、といいつつも了承してくれた。
「カノンさん」
「あ? なん……」
 私の手招きに応じて、軽く顔を近づけたカノンさんに。
「……っ!」
 触れたのは、一瞬。
 微かに触れ合った唇から、力を流し込む。
 ゆっくりと顔を離せば、驚きに目を見開いているカノンさん。
「…………沙希…………」
 掠れた声で紡がれる自分の名に呼応するかのように、顔に血が上るのが分かる。
「わ、わわわわ私だって恥ずかしいんですから!!!! ファーストキスだったんだし!」
 半ば投げやりに叫べば。
「ほぉ……そうかそうか、ファーストキスか……」
 嬉しそうなカノンさんの声が耳に届く。
 ああ、もう本当恥ずかしい。穴があったら入りたいとはまさにこのこと。
「ほら!! 早く出ますよ!!」
「出るって……どうやって…………あ?」
 今まで無かったはずの壁面に出現する扉。
「扉は……初めから、あるんです」
 存在を許された者のみが通る事の出来る扉。異質な存在であったカノンさんにクロノスとのしての力を貸し与える事によって、一時的に属性が変わり空間に認識されたのだ、と説明すれば、さっさと出ないとな。と肯定の言葉が紡がれた。
 重々しい外見とは裏腹に、軋み一つ立てずに開く扉の向こうは暗黒。
 カノンさんの手を引いて暗闇に足を踏み出せば、次の瞬間、互いに違う場所に居た。

「カノン!」
 見慣れた景色と顔に、カノンは声を失った。
「サガ……?」
「ああ、私だ。怪我はないか」
 サガが優しい言葉を掛けてくるなんて、気持ち悪い。と考えながら現在までの経緯を掻い摘んで説明してもらえば、何故あのように慌てているのかも理解出来た。
「サガよ」
「なんだ?」
 己の唇に片手で触れながら、カノンはいつか見せたような企みを含んだ視線をサガに向ける。その視線に軽く目を見開きながら、最悪の場合は異次元に飛ばすしかない、とサガは考えた。
「俺は……欲しいモノが出来た」
「は?」
 予想外のカノンの台詞に固まったサガを後目に、カノンは自室へと歩を進める。どうすればあの不思議な女を手元に置く事が出来るのだろう。誰にも縛られない、縛る事の出来ないあの女の視線を、自分だけのモノにしたい。
 こんな気分は久し振りだと、咽の奥で笑いながらカノンは今後取る手段に思いを馳せた。
 同時刻、自室に帰り着いた沙希が、自分のした行為に再度顔を赤くしている事を、カノンは知る由もない。
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