序章 1

 私の名は 水上沙希。旅行雑誌のルポライターをしている。主に私の書く記事は街のオススメスポットや、食べ物の紹介等と言った軽い物だ。以前は事件記者などにも憧れたが、今は己の仕事こそが天職なのではないかと思える程に、この仕事が気に入っている。
 他社の雑誌にも載らない穴場スポットを見つけられた時には、思わずガッツポーズをしてしまう。そんな私を見て同僚は楽しそうでいいね、と苦笑を漏らすのだ。
 誰だって嫌な事はしたくない。ならば今与えられている現状の中から喜びを見出せばいい。常に前向き思考なこの性格は、我ながら気に入っている。
今回私に与えられたのはギリシャの中心部アテネの街を紹介する事。
 オリンピックの開催を切っ掛けに賑わったアテネは、未だに根強い人気を誇る。あの古代と現代の妙に調和した雰囲気が、人を惹き付けて止まないのだろう。
 日本から半日以上かけて現地に着いた頃には、すでに腰が伸びなかった。これが歳ってやつなのかしら……と半自虐的な笑いを零しながら、なんとかホテルにチェックインをすます。
 本格的な行動は明日から。モバイルに打ち込んできたスケジュールを確認しながら、私は初めてのギリシャの夜を堪能した。

 一夜明けて、今日も快晴。絶好の写真撮り日和である。予備の電池を鞄に入れ、最小限の荷物で部屋を出る。
 さて、アテネまで来たからには、やはりアクロポリスを見なくては。古代遺跡の観光スポットを外す程私も仕事の鬼ではない。パルテノン神殿や、ディオニソス劇場だって見たい。というか折角経費で落ちるのだから、見ないと損をするに決まっている。
 己の欲望には忠実に。愛用のカメラを片手に遺跡を巡る事数時間、流石に疲れてきた。海の見える場所で腰を落ち着け、撮った写真の確認をする為にカメラを起動する。
「意外と良い感じに撮れてるかも……」
 日差しが強いせいで建物の輪郭がはっきりと写り、非常に良い。私は己の撮った映像に満足しながら、持ってきたミネラルウォーターに口を付けた。
「……ん?」
 誰も居ない空間、風の吹く音。
「誰か……呼んだ……?」
 しないハズの音が耳に届く。
 これが幻聴ってやつ?暑さでやられたのかしら……?
 日射病や熱中症には気を使ってたんだけどな……と内心一人呟きながら、ホテルに戻る為に踵を返す。
  だが、異変は急に訪れた。
「な……なに……?」
 眩暈にも似た引きずられるような感覚。そう、例えるならば遊園地にあるコーヒーカップを凄い早さで回した時の、あの気分の悪さに似通うものがある。
 目を瞑りなんとか耐えようとするが、あまりに気分が悪い為すぐ横にあった木に手をついた。
「はぁ……こうして人って、気付かない間に倒れるのかしら……」
 側に木があって良かったと安堵しながら、不意に思う。
 今まで己が居た場所に木なんて生えていたか……? と。
 抱いた疑問を解消しようと、目を開け……私は硬直した。背後に広がる青い海と、空。それは一緒。だが……私の前方に広がっているのは……緑の、森。
 これは一体どういう事だ。私は今まで古代遺跡を見ていたはず……遺跡の側に森など無かった。それに……。
「空気が……違う……」
 こんな済んだ空気、子供の頃地方の山に行ったのが最後だ。
 一体……何がどうなっているの?
 これは夢?やはり私は熱中症で倒れたのだろうか……?
 考えを巡らせてみても、半パニック状態になっている私の頭ではどうにも解決策が出てこない。その時だ、人の声がしたのは。
「あれは……ギリシャ語……と、言うことは」
 現地の人に違いない。急いで声のする方へと足を向け、私はまた愕然となった。
 まるで映画に出てくるような服装に身を包んだ屈強そうな男達。もしかして今撮影中か何か? 自分は映画の撮影現場に紛れ込んでしまったのだろうか?
 今一度気の遠くなりそうな私に、彼等は話しかけてきた。
  貴女は何者ですか、と。
「ムウ様あの人なんでしょう?」
 私の目の前で妙な麻呂眉をした二人組が何かを話している。
「失礼ですが、貴女は何処から来たんですか」
 穏やかそうな物腰だが、眼光は鋭い。そう……まるで見定めるかのように。
 怖い。その単語が頭に浮かんだ。
「何処から……と言われましても……」
 気付いたら森が広がってました、なんて誰も信じる訳がない。取り敢えず私はアクロポリスを見学していた事を伝える。嘘はついていない。酷い立ちくらみがして、目を開けたらこの世界に居たのだ。
「……紛れ混んだのでしょうか」
 藤色の髪をした男性の言葉を聞きながら、頭の中に浮かんだ単語が引っかかった。
 この世界。確かに私は今そう考えた。
 何故……この場所、ではなく、この世界……なのだ。
「あ、あの……やはり……撮影中ですよね? 済みません、紛れ込んで!」
 相手の言葉に対して、それっぽい返事を返す。紛れ込んだと言ったのだから、やはりここは撮影現場なのだ。すなわち……完全なる部外者である自分は一刻も早く立ち去らなくてはならない。
「し……失礼しました!」
 最上級のお辞儀をし、私は文字通り脱兎の如く走り去った。
「君! 待ちなさい!」
 待ちなさいと言われて待つ人の数は少ない。これ以上関わり合いになりたくないという思いが優先し、私は制止の言葉も聞かずに走り続けた。全く持ってついていない。
「今年厄年だったかしら……?」
 大厄はまだまだ先だった気がするんだけど……。今度日本に帰ったらお払いをして貰おう。
 とにかく今は元の場所に戻る事が先決だ。
「行かなきゃ……」
 私の在るべき場所へ。
「…………」
 動かなくてはならない。足を動かして、私の日常へと帰らなくてはならない。だが……私の呟きが、私の足を縫い留める。
 私は探している……帰り道を。ホテルに帰って、写真を厳選して、レポートを書く準備をして……。だけど……、だけど。今私は……何と言った? 何と思った?
 行かなくては、と……。
 自分の在るべき場所へ、行かなくては。
 何かがおかしい。
 私の模索しているのはホテルまでの帰り道であって、決して何処かへ行く為の道ではない。なのに、先程から私の思考回路はおかしい。
 この妙に馴染む空気も、雰囲気も。
「……覚えている……?」
 そう、私は知っている。
 先程の彼等が纏う空気を。
「違う……知るはずが無い」
 そう、知らない。
 彼等も、今自分が居る場所も。
 込み上げてくる不安と恐怖は、今見知らぬ土地に居るからであって。
 口から零れる意味の分からない言葉は、私がパニックになっているせいだから。
 だから……。帰らなくてはならない。
 私の……私が望み、私が選んだ、私の日常へ。
 どれくらいの時間を走っていたのだろうか。いい加減息をするのが辛くなってきた頃、ようやく森の終わりが見えた。
 これで、戻れる。
 開けた視界に映るのは、さっきあった人達と同じ様な服装をした人達。
「ん……?」
「お姉さんどこから来た?」
 衛兵のような格好をした青年が尋ねてくる。
「あの……ここってまだ……撮影現場だったんですか……?」
「……?」
 もしや森を囲んで周囲が撮影現場だったのだろうか?だとしたら私の走った時間は無駄?
 その証に……先程の二人組が歩いて来るではないか。
 ああ、厄日だ。
「そこの娘を捕らえて下さい!」
 紫の髪をした美丈夫が、とんでもない事を言う。
 美形が性格良くないっていう、世間の一般論は正しいんだわ!
「はっ!」
「……いっ! 痛い痛い!!」
 目の前に居た衛兵らしき青年が腕を掴む。その力の強い事。
「アリエス様この娘は一体?」
「それが分からぬからこれから尋ねるのです」
 捕まれているこっちの身にもなってくれ。
 痣になったら傷害罪で訴えてやるんだから!
「君の名は?」
「……沙希」
「では沙希、君は何処から来た」
「それはさっき答えたじゃないですか」
「君は何者だ」
「只のルポライターですよ。……月給の低い」
「アリエス様こいつどうなさるんですか?」
 青年が掴んだ腕を更に強い力で持ち上げる。ほ、本気で痛い。冗談抜きで痛い。証拠に……腕が嫌な軋みを上げている。
 このままじゃ、折れる。絶対に折れる。
「い、痛いから放してよ!」
「何!?」
 私の言葉に反応して、掴む力が更に強くなる。
 みしっ……とまるで木が軋むような嫌な音がした。
「いっ……!」
 折れる……折れるっ!
 ――コロサレル。
「うわっ!?」
 突如吹いた突風に青年が手を放す。
 私はようやく戻ってきた己の腕を抱え込みながら、頭の中に響く言葉に呻いていた。
 殺される。
 私は、殺される。
 嫌だ……嫌だ。死にたくない。
「いや……また、眠るのは……私は……違う……っ!」
「……なんですって……?」
 逃げなくてはいけない。
「君……は……」
 追いつかれない場所まで。
「っ……沙希 !?」
 突風は竜巻となり、霧散する。
 彼女の、姿を伴って。
「…………き……えた……」
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