7

 甘い香りがする。甘い甘い、花の香り。
 それは自分が良く知っている香りであると共に、辛い記憶を思い起こさせる香りでもある。思わず泣きたくなるような気持ちになるが、身を包む温もりがそれを和らげてくれた。ぬるま湯に浸かっているような温かさは安堵感を与えてくれるが、ふとある疑問が脳裏を過ぎる。
 寒い夜道を歩いてきて、私は風呂に浸かったまま寝てしまったのだろうか? ぼんやりとした思考の中で己の行動を思い返し、それはないと否定する。風呂には入ったがその後寒い廊下を辿って寝室に行ったような気がする。たしか寝室のドアを開け……そう、そのまま眩暈が酷くて倒れたのだ。
 となると、私が今寝ているのはカーペットの上ということになるのだろうか? そこまで考え、現状を包む温かさからそれもない、と考えを否定する。では、私は今いるのは一体何処だろう。消えない疑問が脳内に残ったことで、重い瞼を押し上げる作業に入る。
「んっ……」
 歪んだ視界に映ったのは肌色。……肌色? 自分の手かと片腕に力を入れてみるが、視界の色は動かない。ハテナマークが飛び交う脳内に、規則正しい鼓動が響いてきたのはその時だった。ゆっくりと一定のリズムを刻む音は、聞いていて心地が良い。片側から響く音に耳を澄ませながら、焦点を合わせる為に瞬きを繰り返す。
 ゆるやかな鼓動、ゆるやかに動く……敷布団?
「……?」
 現状を把握すべく睡魔を振り払い、全神経を集中させる。触れた箇所から伝わる振動と、温もり。白いベッドの上に存在する色。パズルのピースが嵌るように、嫌な予感が増えていくのは気のせいだろうか。
「………………」
 意を決して上半身に力を入れ、そっと顔を上に動かす。
「――――ッ!!!!!!!」
 私を見下ろす瞳に映っているのは、悦楽の色。
「なっ……ッ!」
 言葉を失った私を面白そうに見つめ、彼の存在は「寝過ぎだ」と、いつかと同じ言葉を吐いた。
「ぎっ、ぎっるっ……っな、なんっ」
「良い眺めだな」
「――ッ!!!!!!」
 慌てて距離を取ろうと体を離した私を見つめ、ギルガメッシュは不敵に笑む。ギルガメッシュの視線がどこに注がれているのか気付き慌てて元の状態に戻るが、結局ギルガメッシュの上に突っ伏す形となってしまって恥ずかしさが二倍になっただけだった。
「ど、どして着てないわけ!?」
 自分の体に異常がない事を全神経総動員で確認し、シーツの端を引っ張り己の体に巻き付けてなんとかギルガメッシュの上から脱出を果たす。
「感謝こそされても、批難される覚えはないな」
「だっ、だって!」
 沸騰した脳では上手く言葉が操れない。ギルガメッシュもそれを分かっているのか、蓑虫のような私の頬をするりと撫で、目尻に口付けを落とす。
「ちょ、なっ!?」
「お前の魔力を吸収してやったというのに、酷い言われようだと思わないか? なぁ彩香」
「え?」
 言われてみれば、倒れる前まで全身を襲っていた寒気が消えている。密着していた状態から察するに、肌を合わせる事によって私から漏れ出た魔力を吸収したのだろうか?
「……ギル様、が?」
 私の言葉を肯定するようギルガメッシュはシーツからはみでていた髪を一房手に取り、私に見せるよう口付ける。日本という島に来てから、現地の人と同じような黒色に変更してあった髪色は元来の白色に戻っており、それが私の魔力が暴走していた事実を裏付ける。
「あ……その、ありがと」
「フッ、礼など聞き飽きた……が、良いとしよう」
「はぁ……」
 相変わらずのギルガメッシュから視線を外し窓から漏れてくる光を確認すれば、日は随分と高く昇っているようでお昼ご飯を作らねばと妙な焦燥感に襲われた。
「あ」
「なんだ彩香」
 ギルガメッシュが動く度にふわりと香る甘い匂い。
「……ッ! ぎ、ギル様! お風呂、よければどうぞ!!」
「ほう」
 甘い花の匂いは自分を捕らえる香り。移り香するほどギルガメッシュと長い時間肌を合わせていたのかと思うと、羞恥心と後悔と、その他諸々の感情に襲われて身動きできなくなる。
「湯浴みも悪くはないな」
 片手を顎に当て頷いて、ギルガメッシュはベッドから床に降り立った。ようやく至近距離に均整のとれた裸体が居なくなったことに安堵の息を付くが、後悔はすぐにやってくる。そんな言葉を噛みしめるような光景が視界を襲う。
「ぎ、ギル様、服、服――ッ!!!!!」
 我が王だ。遮るものなど何もない。
 太字のテロップが流れそうなほど優雅な足取りで部屋から出て行こうとする変態……もとい、ギルガメッシュ。床に脱ぎ捨てられていたシャツを手にし歩いて行く後を追おうとしたが、中途半端に絡めたシーツに足をとられ、顔面からカーペットにダイブした。
 今日は厄日だ。



「はー……買い物行かないと何もないし」
 なんとか身支度を整え、昼飯を作成すべくキッチンに立つ。昨日一昨日と買い出しをしていなかった為、冷蔵庫の中身はほとんどない。こんなことなら乾物を買い込んでおけば良かったと後悔したが後の祭り。仕方なく残っていた卵とパンでフレンチトーストを作る事にした。
「んー、良い香り」
 フライパンにバターを入れ、牛乳と卵に浸したパンを焼き砂糖を振る。砂糖の焦げる香ばしい香りに満足しながらパンを皿に移したところで背後に気配を感じ振り返った。
「彩香」
「フレンチトースト出来たけど食べる?」
 私の言葉に頷きながらもギルガメッシュは意味深な笑みを浮かべたままだ。果たして彼のお気に召すものが何かあったかと首を捻るが思いつかない。
「随分と面白いものを残しておくものだな?」
「はい?」
 ひらり、とこちらに見せつけるようギルガメッシュが片手を上げる。どこかで見たことがあるような色と形。ああ、そうだ。あれは昨日私が履いていたパン……。
「な、なにしてんのよー!!!」
 昨夜風呂に入った際、床に服を脱ぎ散らかしたままのを忘れギルガメッシュに風呂を勧めてしまったというのか。どこか冷静に状況を分析する自分がいる傍らで、本能は勝手に体を動かし片手に装備していたターナーをギルガメッシュに投げつけていた。

「なんか色々スミマセンでした……」
「……」
 無言でフレンチトーストを食べるギルガメッシュの額は赤くなっており、ちょっとだけ血が流れている。
 暴君よろしくな発言ばかりのギルガメッシュのことだ。ターナーを投げつけたことに気付いた私が殺されるかも!? と右往左往している前で、己を傷付けたターナーを拾いこちらに手渡してくれる、というミラクルをやってのけた。本人曰く、「王は寛大」とのことだが……どうも寛大、という単語とギルガメッシュの態度がイコールで結びつかない。
「甘噛みに本気で怒るなど王の威厳が廃る」
「はぁ……さいですか」
 甘噛みって、私は猫か。心の中でツッコミながら出来たてのフレンチトーストを口にする。固すぎず甘すぎず、良い塩梅でほっとした。
「もう四時になるんだねぇ」
 古い壁掛け時計を見遣り、スーパーの特売は何時からだったかと思い出す。
「そういえば、ギル様は時臣さんのところに帰らなくて平気?」
「突然なんだ」
「サーヴァントってマスターって呼ばれる人から魔力を供給してもらうんでしょ? 時臣さんの家がどこか分からないけど、長い間離れてても平気なものなのかなぁって」
「愚問だな」
 ギルガメッシュ曰く、単独行動スキルとやらが搭載されているので大丈夫ということ。名前からして一人歩きしても平気ということなのだろうけど……聖杯戦争と呼ばれる戦闘が行われているのに、マスターである人物を護らなくていいのだろうか? もし、ギルガメッシュが暇を持て余していて尚且つ時間があるというならば。
「ねぇねぇ、ギル様。もしよければ、なんだけど……一緒に買い物付き合ってくれない?」
「買い物だと?」
 片眉をぴくりと動かし、ギルガメッシュがフォークの先をこちらに向ける。
「まさか我を荷物持ちにするのではあるまいな?」
「まさかまさか。ただ夜歩きして殺されたら嫌だからさ」
「クッ、フハハハハハ!」
 私の言葉にこれまた急に笑い出すギルガメッシュ。毎度のことながら笑いのツボが分からない。
「お前が殺される? 冗談はもっと上手く言うものだ!」
 滑稽だと笑い続けるギルガメッシュに、今度は私の眉が寄る番だった。人が本気で身の安全を心配しているのに酷い態度だ。
「夜歩きするなーって教えてくれたのはギル様でしょ。んじゃ、時臣さんの家に帰る道すがらでいいから、方向一緒だったら少しだけ一緒に居てよ」
「ほう? 我に願うか」
 面白い、と一言呟いてギルガメッシュは残っていたフレンチトーストを口の中へ放り込む。
「お前は我を楽しませる。良いだろう。興が乗った、付き合ってやる」
「……それは、どうも」
 相変わらず面白いと笑いの判断基準が分からないと、疑問を抱きながら口にしたフレンチトーストは妙に苦かった。



「で」
 まるで仕組まれた現実が展開しているような、この状況は一体なんなんでしょうか。
 ギルガメッシュと共に屋敷を後にし、日がとっぷり暮れた頃にその人物は現れた。逢魔が時とでもいいたいのか、普段は人通りの多い道は閑散としていて、立ちはだかるように道を塞ぐ存在を目視するのに時間は必要無かった。
「随分な余裕だな、アーチャー」
 色違いの槍を両手に持ち殺気を放つ存在。きっと彼もサーヴァントと呼ばれる人物なのだろう。
「ちょ、ちょっとギル様……」
「下がっていろ彩香。王の足を止めた者に制裁を加えてやろう」
 弓なりに口元を歪め、ギルガメッシュが片手を振る。蜃気楼のように歪む空間を横目で確認し、改めて眼前に立つ人物に視線を戻す。先程までは逆光でよく見えなかった容貌が、街灯が付いたことによって薄闇の中で浮き彫りになった。
「……うっわ」
「彩香?」
 思わず声を上げた私を不審がるようギルガメッシュが視線を寄越す。
「貴方……」
 どこかぼんやりとした雰囲気を纏って音を紡ぐ私を見、泣きぼくろの美丈夫は慌てたように片手で己の顔を覆った。
「ランサー、貴様」
「ち、違う! これは事故だ!!」
 慌てたように槍を持ち直す美丈夫を見つめながら、私はギルガメッシュの背中に隠れる。
「む、彩香?」
 恥ずかしいという気持ちよりも、安堵感が勝るのはどうしてだろう。服越しにギルガメッシュの体温を感じながら、広い背中にピタリと額を当てた。
「なんか、駄目。アノ人眩しい」
「……は?」
 一気に霧散する緊迫した空気。急に消え失せた陽炎に、何事かと相手の美丈夫が構えを解くのを気配で察しながら、もう一度「眩しすぎ」と気持ちを声に出す。
「なんていうか、キラッキラしすぎてるっていうの? あれだよね……顔の良さもあそこまでいくと逆に鑑賞対象になるっていうか、後光が差してるような幻が見えるっていうか」
 そっとギルガメッシュの背中から顔を出しランサーと呼ばれた人の顔を見てみるが、やはり眩しい。イケメンは好きだがレベル違いのものを視界に映すとどんな感情を持ったらいいのか分からなくなってしまう。
「ギル様は平気なのになぁ」
「なんだと?」
 彫刻美を彷彿させる均整のとれた体と顔。恐らく顔の良さだけで言えば相手方の勝利なのだろうが、私個人としては……。
 そろり、と見上げた先で私を見下ろしていたギルガメッシュと視線が絡む。
「ッ!」
 顔から火が出るとはこういう事を言うのだろうか。赤い瞳を前にしたら一気に体の熱が頬に集まり、再度ギルガメッシュの背中にひっつく状態になってしまった。
「……」
「……」
「……失礼する」
 呆れたような声色と共に、ランサーさんの気配が消える。
「彩香、顔を上げよ」
「……や、やだ」
 微動だにしないギルガメッシュと、微動だに出来ない私。せめて顔の熱が引くまではとしがみついた背中は温かく、起きた時の事を思い出し私の中の羞恥心ゲージは華麗に許容範囲を超えた。
 どうしたらいいのだろう? どうすればいいのだろう? 焦りパニックを起こす私の頭上で、阿呆、と言わんばかりに鴉が鳴いた。
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