[愛の言葉を囁いて](8937)





俺は、あいつが何を考えているのかを知らない。
同じものを見ていない、同じ道を歩んでいる訳でも無い。そう遠くない未来ではお互いの夢の為に、離ればなれになるだろう。
この学校で過ごした最後の1年だけが唯一の接点と言ってもいい。この1年で俺があいつについて知ったことと言えば、片手で数えられるぐらいしか無いだろう。

しかしあいつは、俺のことを好きだと言った。人として、愛として、俺と付き合って欲しいと。
俺はあいつを知らない。だが、あいつは俺のことをよく知っていた。
誰よりも近くで俺のテニスが見たいと部に入り、俺を支えたいが為に委員会を移動したとあいつは言っていた。後から思えば不純な動機だが、その場は咄嗟に反応が出来なかった。
声を荒げ、激情に駆られるまま捲し立てるその姿。それは、冷静沈着でとかく受身がちに見えた「俺が知っているあいつ」とは全く違っていた。
幻なのかも知れない。そう信じたかったが、不意に掴まれた手の熱がその光景を現実であることを証明していた。今でも思い出せるほど、劇烈な記憶。

俺はあいつのことを知らない。あいつは俺のことを知っている。だからあいつは俺に好きと言いたくなかったと後から聞いた。
あいつの予想通り、俺は悩んだ。そもそも恋愛に興味が無かった上に、相手は男だ。むしろ悩まない奴が居るのだろうか。
……三日三晩考え、結論は出なかった。出せる筈も無かった。あいつのあの姿を見せられれば、あいつのあの目を見てしまえば。
常識と非常識、理性と本能。何が正しくて、何が正しくないのか。俺が生きてきた日常とは、果たして「正しかった」のか?
あいつは初めて俺を見た3年前から想い続けていたと言っていた。3年間もあんなに苛烈な想いを抱えたまま、俺の傍に居た。あいつのことを知ろうともしなかった、俺の傍に。

4日後、俺はあいつの申し出を受け入れた。だが、あいつは哀しそうな顔で拒絶した。
私は貴方に贖罪しろと言ったつもりはありません。毅然としたその声は俺の想いをすべて見抜いているかの如く低く響いた。そこで俺はようやく、自分がしようとしていたことの醜さを知った。
同情、憐れみ。あいつにとってその感情は最大級の侮辱であり、屈辱でしかない。俺はそのことが何一つ分かっていなかった。
だがあいつは俺に微笑んだ。好きだと言ってくれている奴を何一つ知らない、何一つ知ろうとしない俺に向かって、謝ってきた。
申し訳ありません、あなたを苦しませるつもりは本当に無かったのです、あの事は無かったことにしてください、と。

その時が初めてだった。『嫌われたくない』と心の底から沸き上がってきたのは。
気が付いた時にはあいつの腕を掴んでいた。まだ話は終わってないと叫んでいた。伏せていた柳生の目が俺の心臓を射抜くまで、自分が行動したことに気が付かなかった。
目が合った瞬間、俺の中に柳生のすべてが飛び込んできた。動きに波打つ髪、不自然な形を取った指先、そして、俺を見つめる瞳。そのことをすべて認識した時、これまで体験したことが無いほどに脈拍は乱れ、呼吸が浅くなる。顔に熱が集まり、汗が止まらない。
柳生の腕を掴んだまま深呼吸する。身体中の筋肉が緊張しているのが分かった。何故だ? 何故いきなりこんな状態になっている? 意識しないと呼吸すら出来ない。一体どうなっている。
深呼吸を繰り返し、病気かと思うほどに強く打つ鼓動を抑える。そして、思い至った。
俺は『嫌われたくない』と思ったことがこれまで一度も無かった。無かった、と言えば嘘になるかも知れないが、少なくともその思いを意識することは無かった。
幸村の対戦相手として、蓮二の思考の実践役として、赤也の指導者として、俺は自分の能力を買われてそれぞれの地位についている。俺もそのことに関しては常に能力を高め、人から必要とされるよう努力しており、絶対の自信がある。
だが、あいつは『俺』を好きだと言った。
能力だけでなく、性格や性質・長所も欠点も総て含めた『真田弦一郎』という人間を愛していると言った。現に今、最大の愚行を犯した俺を笑って許そうとしている。それが愛だと言わんばかりに。


俺はずっと戸惑っていた。
俺は恋愛をしたこともなければ興味も無かった。ただ俺は、幸村や蓮二やお前たちと切磋琢磨し合いながら、自らを高めていければ満足だった。
だが、俺はお前に告白されて、戸惑った。ずっと傍に居てくれたお前に気付かなかった俺に。それでも傍に居たお前に。
お前は今までに数えきれないほど俺を支えてきた、だが俺はお前に何もしてやれていない。なのに何故、お前は俺の傍に居ることを望んだのか、分からなかった。
正直今もよく分からない。間違った俺をも許そうとする、その、お前が語る『愛』とやらが、俺には理解出来ない。
……自分でも何を言っているのかよく分からない。それだけ今頭が混乱している。だが、一つだけはっきり言えることがある。
俺は、『お前に嫌われたくない』。
今まで俺はそんなことを思ったことが無かった。嫌う奴は勝手に嫌っていればいい、そのせいで俺の評判が悪くなろうが俺には関係の無い話だと考えていた。
だから、俺は何故お前に嫌われたくないのか、自分でもよく分からない。こんなことなるのは初めてで、どう対処すればいいのか皆目検討がつかない。どうすればいい?


問うてどうする。反応に困るあいつの表情にふと我に返ると、火が出るのでは無いかと思うほどに顔が熱くなった。思わず座り込んでしまう。
だがしかし今の俺に言えることはそれがすべてだった。俺はお前のことも俺自身のことも、分からない。何故嫌われたくないのか、どうすればいいのか、分からない。みっともないが、それが事実だった。

その時、あいつが俺の手を取った。視線を上げれば、あいつは優しく微笑んでいた。収まったと思っていた脈が再び強く拍動を始める。
一向に熱が退かない俺の頬をあいつの手が包んだ。少し低い体温は火照っていた顔に冷静さをもたらす。至近距離で見つめられて、視線を外したかったが、外せなかった。
あいつの瞳は柔らかい光に満ちていて、透き通っていて、真っ直ぐに俺を見つめていた。眼だけでなく、唇も髪も俺に触れている肌も、何もかも木漏れ日のように温かく澄んでいる。俺はいつの間にか、あいつに見惚れていた。

人が愛を語るのに必要なのは自分自身だとかつて親友が語っていた。
常識に囚われようが、本能のままに貪ろうが、どんな形であれ自分自身が求めるのであれば、それが『愛』なのだと。
自己中心的ではないかと反論すれば、愛とはそもそも自己愛から発展したものに過ぎないと返された。自分を愛せない者が相手に愛を注ぐことは出来ないとも言っていた。
その時は結局納得出来なかった。人を愛するということは人がお互いを思いやって成立するものではないのかと、親友の考えに不服を持っていた。
ああ、とようやく合点が行った。今なら親友の言っていたことが分かる。
目の前に居るこの男へ誠実に応える為には、常識や世間のルールを超えて、『俺自身がどうしたいのか』が最も必要なのだと。そう言いたかったのだろう。

あらかじめ掴んでいた腕を掴み直し、もう片方も掴む。あいつは驚いて、俺から手を離す。バランスが崩れて、距離が一層近付いた。
鼻先同士が触れ合うような近さ。白い肌、薄茶の瞳、煌めく細い髪。何も考えず受け入れると、綺麗だとまず感じた。
困ったようにあいつが俺の名を呼ぶ。俺はそれに頷きで応じ、目を閉じて深呼吸をした。


…俺はお前のことを知らない。今までお前がどんなものを見てきて、どんな世界に生きてきたのかを、何一つとして知らない。
しかし俺は今、お前のことを知りたいと思っている。もっともっと深くお前のことを知りたい。
俺には恋だの愛だのいうことはまだ分からない。だからまず、お前のことを知ってから、それから俺は、俺が感じるようにお前に接しようと思う。
お前が嫌でなければ、俺は、そうお前と付き合いたい。


目を開け、顔を上げる。呆けていたあいつの顔が段々と真っ赤になっていく。元が白い分、余計に赤みが目立つ。ふ、と自分の中にあった緊張が解れていくのが分かる。
真田君、と上ずった声がした。ああこいつも焦っているのだと思うと、不思議と笑みがこぼれた。
知らなければ知ればいい。分からないのなら分かるまで傍に居ればいい。そんなに簡単なことに気付くまで、俺はどうしてこうも遠回りをしてしまうのか。
力が抜けて、屋上の床に胡座をかく。紅くなったあいつの髪を撫でると、今度はあいつが悔しいような照れた表情になった。

俺は、あいつが何を考えているのかを知らない。
同じものを見ていない、同じ道を歩んでいる訳でも無い。そう遠くない未来ではお互いの夢の為に、離ればなれになるだろう。
だが俺はあいつのことを知りたいと思う。それがこれから先にどんな影響を及ぼすのかはまだ分からないが、そう悪いことではないだろう。何の根拠も理由も無く、俺はそう予感している。


「そう思わないか、柳生。」



[Fin.]
エピローグ:言葉では足りないほどの(8937&8720)


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