ぱちりと火が爆ぜて


 灯りの灯った室内から外を見ると、余計にその暗さが際立って見えた。
 他に残っている生徒はいないのだろう、黙り込んでしまうと一層静けさが耳に残る。
 ともすればすぐにうつつの向こうへと霞んでしまう意識がふと現実と重なるときには、遠く部活動をする生徒たちの掛け声が聞こえた。
 それ以外に聞こえる音はといえば、シャーペンが薄い紙を通して下敷きを擦る音と、本の頁を捲る乾いた音だけだ。
 静寂は優しく、呼吸をすることすら厭われて、黙々と白い紙面を鮮やかなペンで埋める作業に没頭した。
「っくしゅ」
 控えめにしたつもりのくしゃみがやけに大きく教室に響く。
 幸村は読んでいた本から目を上げて、鼻を擦る織を見た。
「寒い?」
「ううん、平気……」
 そう言いながら、すっかり冷えてしまった掌を擦り合わせ、息を吹く。
 広い教室はがらんとして、いかにも寒々しい。
 幸村はくすりと笑って、本にしおりを挟むと立ち上がった。
 教室の端に置かれているストーブのスイッチを入れて、おいでと手招きをする。
 なまえは机に広げていた教科書、ノート、筆記用具を掻き集め、いそいそとストーブに一番近い机に陣取った。
「点けていいの?」
「いいんだよ。勉強してるんだから」
 ストーブは節約のため使える時間が決まっている。
 HRはとっくに終わり、残っているのは部活をしている生徒ばかりの今の時間帯は、もちろん許可されていない。
 なまえは幸村の悪戯っぽい笑みを見て、ああ、と唸った。
「……怒られたら私のせいってわけね」
「ふふ。見つかる前にノートを写し終わればいいんだよ」
「はいはいはい、急ぎます」
 いそげいそげ、と呟きながらなまえはかじかむ手でシャーペンを掴み、ノートを写し取る作業を再開した。

 数十秒経って、ようやく着火音とともにストーブが点く。
 幸村はその前に椅子を持ってきて、足を伸ばして座ると本の続きを読み始めた。
 静かだった教室に、ストーブの音がじわじわと浸み込んでゆく。
 なまえは一旦手を止めて、凝ってしまった掌をストーブに翳してみた。
 赤い光が暖かく白い掌を照らす。
 凍った血が溶けていくような、この感覚が好きだった。
 ほっとしたようななまえの顔を、幸村は本から目を上げてじっと眺める。なまえが風邪を引くことに比べたら、教師に怒られることなんてどうってことはない、という言葉はさすがにくさすぎるので、黙っておいた。
 たいしたことではないけれど、なまえが喜ぶことをしてあげられるというささやかな自負が、幸村の心を暖める。
 いつまでも見つめてくる幸村の視線に気付いて、なまえは不機嫌な顔をしてみせた。
「何見てるの。ニヤニヤして」
「いや、ノートは写し終わったのかなって」
「まだですすみません。ちょっと手をあっためてるの。硬くなっちゃって字が書けないんだもん」
「そう。……ああ、もう六時近くなんだね」
「えーっ! ほんとだ。やだもう外真っ暗だし……」
「早く帰りたいね」
「はいはいはいはい急ぎます急ぎますから! もうちょっとだから」
 なまえはわかったわかったと手を振って、残りの一ページを走り書きした。
 急いだので字がずいぶん雑になってしまっている。
 なまえはノートを畳むと、かしこまって幸村に差し出した。
「お陰さまで大変助かりました、ありがとうございました」
「どういたしまして。それじゃあ帰ろうか」
 ストーブの電源を切り、鞄を持つ。
 電気を消すと、室内は真っ暗になり、闇に溶けた。

「あー寒い。暖かいもの食べたいな」
「コンビニのおでんでも食べて帰る?」
「それいいね。おでんっおでんっ」
「ノートのお礼はがんもどきでいいよ」
「えっ私が奢るの!?」
 大げさな仕草で幸村を見上げたなまえに、幸村はにっこりと笑い返した。
「俺に奢らせる気だったの?」
「だって……そこは……ねえ」
「俺に奢らせる気だったのか」
 ちょっと笑みを曇らせて繰り返す幸村から、なまえは目を逸らした。
「……がんもどきって一個おいくらでしょうか……」
「ふふっ」
 ノートのお礼なんて、君と静かな冬の一時を過ごせたのだからそれで十分なんだけれど、なんて歯の浮くような台詞は心の中に留めておいて。
 君の笑顔が見られるなら俺はどんなことだってするけれど、たまに意地悪なことを言ってしまうのは、君の困った顔も魅力的だから。
 俺の言葉でころころと替わる表情はどれも愛おしくて。
 そんな中でも、俺の見せた優しさに返してくれる笑顔は、例えるなら寒い冬の暖かな陽だまり。



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