have a nice day



「約束が違う!」
 バン、とテーブルを叩いて立ち上がった彼に、店中の視線が集まった。怒りに我を忘れたのは一瞬で、すぐに頬を赤くして咳払いをしながら椅子を引き戻す彼の真面目なところは好ましい。
「だから、悪かったって言ってるでしょ」
「あ、謝ればいいというものではないだろう!」
 私のぞんざいな言い方に、彼の声が裏返る。なんとかそれを抑え、テーブルの上で握られた拳の震えを、私は見つめる。
 謝る以外に言うことはない。言い訳は嫌いだ。
「どうしていつも君はそうなんだ」
 彼のまっすぐ過ぎる目付きは苦手だ。目をそらし、自分の爪を見る振りをする。
「穴埋めはするから」
「だから、そういう話ではない」
 テーブルの向こうから手が伸びてきて、私の手に重ねられた。
「僕を見てくれ」
「聞いてるって」
「ちゃんと見てくれ」
「……」
 ほら、真剣なくらいまっすぐな瞳。そんなふうに見つめられて、いったいどんな顔をすればいいっていうの。恥ずかしい。
「僕は、この日をとても楽しみにしていたんだ」
「それは……私だって同じだってば」
「だから、きっちりプランも決めた」
 そういって彼は懐から手帳を取り出すと、テーブルの上にびっしり黒い几帳面な文字でうめつくされたページを広げてみせた。
「朝八時駅前で待ち合わせ、十分前に到着。八時八分発の電車に乗り、移動。話題の候補、最近読んだ本について……ただしヴァンガードのことは控える」
 驚くべきことに、それは当日の細かいスケジュールだった。電車の中での話題まで事前に考えて用意しているなんて。この子はどこまで。
「僕が君と約束したのはこの通り、朝八時からだ。開館時間の十時に間に合えばいいというものではない」
「急用ができちゃったのは謝るってば。でも、話くらい電車の中でなくたってできるでしょ」
「それじゃ足りないだろう!」
「足りないって、いや、えっと」
 堂々と言い放たれて、答えに窮した。
「す、水族館には開館から閉館までずっといるんだし! そのあと近くのレストランでディナーするでしょ! 充分じゃない」
「それでは電車に乗る時間が短くなる!」
「帰りに乗ればいいでしょ」
「楽しみにしていたんだ」
「ああもう!」
 なんて強欲! ほら周りも呆れてるわ、すわ浮気か、なんて耳をそばだてていたのに、結局惚気なのね、みたいな白けた空気。
 私だってこんなことで言い争いたくなんかないわよ。
 わからずや。
「夜は混雑しているだろうから、朝の電車内でないとゆっくり話せないだろう」
「知らないわよ! 翌日は空いたから、夜はずっといられるの!」
「僕の話を……え?」
 ぽかん、と眉間にしわを寄せるのをすっかり忘れて、彼は口を開けた。ずっとそう言ってるのに聞いてないんだ。
「だから、夜は近くのホテル取ったからそこで心ゆくまで語り明かせるわよって言ってるの」
「……ほ」
 ホテル、その一言すら言葉にできず、彼の顔はみるみる真っ赤。ああまた、周囲が耳を大きくして、興味津々に身を乗り出してきた。
 こんなところじゃ落ち着いて話せやしない。
 私は立ち上がり、彼の腕をぐいっと掴むと引きずるようにして店を出て行った。
 私達の初めてのお泊り計画を完璧なものにするために相応しい会合場所を見つけなきゃね。



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