まだ間に合うから



「もう真っ暗ですよ」
 あらかた客が帰ってしまって、閉店の準備をしている店内は、明かりの数は変わらないはずなのに、つい一時間前とは打って変わって薄暗く感じる。
 そこにぽつんと、パイプ椅子に座り込み、カード図鑑を見るともなしに眺め続けている彼女に声を掛ける。
 彼女は答えず、ぱら、とページをめくる。僕は在庫整理を終わらせ、テーブルを拭き、明日の準備を終わらせて、エプロンを外し、改めて彼女に向き直った。
「さあ、もう閉めますよ。続きはまた明日、読みに来てください」
 あとはその図鑑を片付ければ終わりだ。彼女にそれを渡してくれるよう手を差し出すが、彼女は相変わらず僕を無視する。
「ゆりかくん?」
「これ、どういう効果?」
「え?」
 これ、と彼女はカードを一つ指差す。僕は彼女の後ろへ移動し、彼女の肩越しに図鑑を覗きこんだ。
「どれですか?」
 上からだと見難いので、屈むと、彼女より目線が下になった。彼女はばさりと図鑑をテーブルの上に放って、僕の肩を掴むとぐい、と押した。不意を突かれてバランスを崩した僕は、情けないことにそのまま床に倒れ込む。
「い、たた。乱暴ですねぇ……」
 笑ってみせたが、彼女は笑っていなかった。僕の肩を押さえつけて、僕の上に伸し掛かってくる。
「ゆりかくん……?」
 店内に他に誰もいない。ミサキは店長代理と一緒にもう自室に引っ込んで、勉強している頃だ。ことによると、シャワー中かもしれない。
「どうしました?」
 何か思い悩んでいることでもあるんでしょうか。できるだけ優しく訊ねると、彼女は不機嫌に眉を顰めた。
「なんで、平然としてるの」
「痛いですよ。ただ、動けないので、頭を擦ることも出来ないだけです」
「とぼけないでよ!」
 確かに、女子高生に床に引き倒されたというのだから、もっと慌てたり、騒ぐべきだったかもしれない。失敗したな、と自嘲が漏れる。何か言いたいことがあるようだったから、ぶつけたい想いがあるようだったから、受け止めてやりたいと思って、なすがままになってしまった。
 これは……不味かった。こんな対応、カードショップの店長と、常連客の一人に対するものとしては相応しくなかった。
「すみません」
 つい、謝る。彼女はぎゅ、と肩に置いた手に力を込めた。
「そうやって……。いつも、どうしてごまかすの」
「誤魔化しては……いませんよ」
「今だって目を逸らしてる」
「あ、眼鏡取らないでくださ」
 彼女はぱっと眼鏡を取り上げ、テーブルの上に投げた。どうやら床には落ちずにすんだらしいとほっとして、また対応を間違えたことに気づく。
 彼女の目はまっすぐに、僕を見据えていた。
「私を見て」
「……見ています」
「見てない」
「見ています……いつも、ずっと。いつだって」
 いつからだったろうか、彼女が常連客の一人から、特別な女性としてこの目に映るようになってしまったのは。
「えっ、きもい」
「ちょっと!? シリアスな空気台無しですよ!?」
 さらっと罵られた。
 確かに罵られても仕方ないというか……!
 自分でもちょっと執着し過ぎかななんて思ったけど!
 それはひどいですよ!
 せっかく、意を決して、誤魔化さないで答えたっていうのに。
 ああ、そうだ。僕はずっと、誤魔化してきたんだ。彼女のまっすぐで純粋な気持ちを向けられながら。
 彼女は前髪で表情を隠したまま、低い声で続ける。
「……じゃあ、なんで誤魔化すの」
 でも、上手く行っていなかったようだ。彼女を騙し通せなかったのだから。僕は彼女の手をぽんぽんと叩き、離してもらうと、起き上がって服を払った。
「ちょっと、話しましょうか」
 パイプ椅子を二つ向かい合わせに置いて、彼女を座らせ、もう一つに僕も座る。
 こうなってしまったら、一度話し合わないといけないようだ。納得行くまで。
 納得、できなくても。
「シンさん、私のこと好きでしょ」
 開口一番、ずばりと彼女は追求してきた。思わずパイプ椅子から転げ落ちそうになる。
「いっ、いやあの、ちょ、直球ですねぇ……!」
 テーブルの上でひっくり返っていた眼鏡を拾い上げ、掛けようとするが手が震えてうまくいかない。ずれた眼鏡を何度も指で押さえて、なんとかまっすぐにする。
「私がシンさんのこと好きって、知ってるんでしょ」
 ああ、バレちゃってる。
 ですよねぇ、と首を掻く。本人から直接指摘されるのは、思った以上に恥ずかしいものだ。全然、誤魔化せていない。
 まっすぐ僕を見つめる彼女を、僕は見つめ返せない。
 まっすぐ思いをぶつける彼女に、僕は上手く返せない。
 それはやっぱり、無理というものだ。
「……こういうことは、難しいんです。ただ感情のままに求めればいいというものじゃない。それでは、お互いが……いえ、君が傷ついてしまいます」
「そんなのどうでもいいよ。傷つけてくれればいい」
「いけません。君が大事なんです」
「……嬉しくない」
 彼女はむっつりとして僕を睨む。ひたすら僕は謝るしかない。
「すみません、君の欲しい言葉をあげられなくて」
「意地悪。ロリコンだって認めればいいのに」
「だからそれはぁ……!」
 僕の年齢と彼女の年齢なら、確かにそう言われても仕方ない、でも、いくらなんでも身も蓋もない!
 オブラートを!
 もう少しオブラートを!
 咳払いをして気を取り直し、話しを続ける。
「僕達がよくても、世間の目というものは、思っている以上に厳しく、冷たいものなんですよ。僕はそれから君を守り通せる自信がない」
「弱虫」
「はい、そうなんです」
 きっぱりと切り捨てられる。僕は甘んじて誹りを受ける。
「君を傷つけるのが怖い。君を失うのが怖い。君にこうして会えなくなるのが怖い。だから今は……これ以上は、踏み出せないんです。こんな男で……すみません。そのくせ、君を突き放す決断すらできないんですから本当に……優柔不断、ですよね」
 我ながら情けない。答えられないのなら、突き放すべきなんだ。誤魔化しなんかしていないで、はっきり言うべきなんだ。答えられない、と。
 なのに僕は、それすらできない。
 彼女はじっと俯いて、僕の言葉を飲み込み、考えているようだった。
 膝の上で拳を握り、ぽつりと呟く。
「私もう16だよ。結婚できるんだよ」
 子供じゃないと訴える彼女が微笑ましくて、つい笑みが零れた。
「いいえ。君はまだ学生です。未成年です。だから、ダメです」
 彼女の顔を覗き込み、笑ってみせる。見つめ合う彼女の瞳はみるみる潤み、彼女はぱっと目を逸らした。
「……その顔、かっこいい。ずるい。弱虫なくせに、優柔不断なくせに、優しくて、甘くて、かっこいいんだから…ずるいよ。私、これ以上強引にできない。シンさんに無理言えなくなっちゃう」
「ごめんなさい、こんな男で」
「じゃあ……どうすればいいの? 両思いなのに、恋人になれないなんて、いやだよ」
 ぐず、と彼女は目をこする。ああ、いけない。さっきまであんなに強気に、言い負かしてやる気満々だったくせに、そんな可愛らしいところを見せられてしまったら、僕は、本当に弱い男なんだって、思い知ってしまう。
 抱きしめて、頭を撫でて、慰めて、安心させたくなってしまう。
 それが余計に、彼女を苦しめることにしかならないと、わかっているのに。
「シンさん……どうすればいいか教えて。誰にも言っちゃいけないなら、黙ってるから。あんまりお店に来ないほうがいいなら、来ないから。それで、シンさんと付き合えるなら、私、頑張るよ」
「な、何を言ってるんです、ゆりかくん……!」
 思わずそれはいいですね二人で頑張りましょうなんて言いそうになってしまい、舌を噛みそうになる。ダメダメ、それはダメだと、何度言い聞かせたらわかるのか、この煩悩に侵された頭は。
「そういうことじゃないんです。つまり……。せめて、君が高校を卒業しないことには」
 また言葉を間違えた。これでは最終的にどうにかなりたいと思っていることを吐露してしまったも同然だ。彼女に希望を持たせてどうする。
「あと二年も待たないとだめなの?」
 彼女は涙で赤くなった顔を上げて、期待を込めて僕を見上げる。
「ダメ、というかですねぇ……ええっと」
「……シンさん?」
「ハイ」
 いけない、言葉尻が浮いて、曖昧になってしまった。彼女はじろりと僕を睨む。
「誤魔化さないで」
「……ハイ」
 弱った。本当に、僕は優柔不断なんですよ。あんなに言い聞かせたのに、もう踏み越えてしまいたくてたまらなくなっている。
 だからやっぱり……ダメ、ですね。
 僕では、君を幸せにはできないんだ。
「では、誤魔化さずに言いますね」
 途端に、彼女の表情が弱気になる。何を言われるのか、不安でいっぱいで、身構えている。君も揺れてる。なら、まだ間に合う。
「僕のことは、諦めてください」
「や……やだ」
「はい、誤魔化さずに言いましたよ」
「やだってば……!」
 手を伸ばしてきた彼女を交わす。入り口以外の電気をすべて消して、ドアを開けた。
「閉店の時間です」
「……っ」
 なんて残酷な人間だろう。こんなにもそっけない声を出せるものだとは、知らなかった。彼女の顔が見たこと無いほど涙に塗れ、ぎゅっと心臓が潰れそうな罪悪感に駆られるのに、一方で酷く安堵している自分がいる。
 脇をすり抜け、飛び出していった彼女が、もう二度とこの店を訪れることがないことを思って、喪失感に襲われる。
 これでいいんだ。
 これが、一番だったんだ。
 電気を全て消したあと、図鑑が出しっぱなしだったことを思い出す。暗い中、手探りで図鑑を取り上げ、パイプ椅子を並べ直し、本棚に図鑑を戻して、店のドアに鍵を掛け、家に帰った。
 ミサキはもう寝てしまったようで、部屋も静かで、薄暗かった。


お別れしよう



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