※初夜話

「…………あのさ」
「うえっ!?」

ガチガチに緊張している彼女に、葉王は小さく溜息をついた。一応気づかれない様に配慮はしたつもりだが、それも意味はないだろう。恐らく、葉王の反応を気にしている余裕は今の彼女にはない。
夫婦になったとは言え、それは形ばかりのものだ。未だ二人の間に肉体関係は存在しない。
けれどその距離を、彼女自身が覆してきたのだ。

『あの…』

数日前。
きゅ、といやにしおらしく着物の端を引かれて、葉王は小さく首を傾げた。悶々とした彼女の心の中は、複雑過ぎて正確に読み取れない。
けれど、潤んだ瞳と朱色に染まった頬から、なんとなく察した。

『お、お前に…やる、から』
『何を?』

意地悪く問い返せば、その頬が更に赤くなる。
『この鬼畜野郎』と心の中で悪態をつく彼女に、葉王は必死で笑いを堪えた。じわじわと潤んでいく瞳には、愛らしさしか感じない。

『オ、オイラが…お前の子供、産んでやる』
『好きでもない男の子供は、産みたくないんじゃなかったの?』

そっと華奢な身体を抱き寄せながら問えば、背中に回された彼女の手がばしりと腰の辺りを叩いてくる。羞恥からか、ぎゅっと抱き着いてくる様は可愛らしい。

『好き、に、なっちまった、から。お前のこどもなら………産んでも、いい』
『ふふ、そうなんだ』

震える声音で告げてくる少女に、葉王はただ、小さく微笑んだ。
よしよしと幼子にするようにその頭を撫で、淡く耳元に唇を寄せる。びく、と甘く震えを帯びる身体が愛おしい。

『それじゃあ、また夜に』

そう葉王が低く囁いて悪戯っぽく微笑むと、少女の象牙色の頬がぼっと朱色に色づいた。
はくはくと金魚の様に口を開閉させる少女の髪を指先に掬い取り、淡く口付けて見せれば、よく分からない悲鳴を上げた少女に物凄い勢いで突き飛ばされる。否、突き飛ばされる直前にさらりと逃げた。

『ばか!ばかはお!やりちん!すけべやろう!ばか!』

瞳を潤ませ赤く頬を染めながら怒鳴る少女に、葉王は思わず声を上げて笑う。
肩を怒らせながらずんずんと家の奥へと進んでいく少女を見送りながら、葉王は柔らかく唇をほころばせた。
いつでも正面からぶつかってくる彼女の言葉は、心地良い。葉王の霊視の能力を知らないまま、それでも、口にする言葉と思いにあまり齟齬がないのだ。それが元々の彼女の気質でもあるのだろう。力を持たない、弱い娘だ。けれどそれと同じくらい、己の心に向き合い、戦い、傷ついてきた娘でもあった。
誰もが畏怖し、助けを乞う、希代の陰陽師・麻倉葉王。
そんな彼でさえ、少女は守ろうとしたのだ。その肌には、未だ癒え切らないその時の傷があるのだろうか。
そんなことを思いながら、葉王はぼんやりと少女の後姿を見つめる。

(………ら……し…)

しかし、不意に聞こえたその"声"にハオはすっと瞳を細める。
余りにか細い、彼女の"声"。
まるですがるような、怯える様な、弱弱しい声音だった。

(いやがられたら、どうしよう)

そう小さく響いた声を最後に、部屋の奥へと少女の背中が消える。
葉王の胸に、僅かの疑問を落として。


そんな出来事があってからの、今の訳だが。


寝巻き姿の彼女は布団の上で正座をしたまま、ガチガチに身体を強張らせている。
結局少女が決意表明をしたものの、その日から葉王の方が忙しくなってしまい、今日の今日まで夜を共にする機会はなかった。本日、否、もう昨日か。夕日に照らされながら戸惑うような、思い詰めた様な顔で仕事帰りの自分を出迎えた少女に寝所で待っているように伝え、葉王も身支度を整えて時間を見計らい、少女の元へと赴いた。
の、だが。
葉王が身じろぐだけでびくつく様を見ていると、興味深い以上になんだかいじめているような気分になってくる。今まで少ないとは言い難い数の異性と褥を共にしてきた。勿論、その中には男を知らない娘も数多くいる。しかし、さすがにここまで緊張している相手はいなかった。
どうしたものかと、葉王は内心溜息をつく。からかうのは好きだが、無理強いは余り好まない。

「………あの」
「うん?」

蚊の鳴く様に小さな声を上げた彼女に、葉王は出来る限り柔らかく答えた。
沈黙。けれど、暫くしてから彼女は顔を上げた。

「………その、オイラの身体………あんま、綺麗じゃないんだ…だから…ッ」

困った様な笑顔だった彼女の瞳が、言葉を重ねる度にじわじわと潤んでいく。ひく、とこみ上げる嗚咽を止めることもできずに、少女は、ただ言葉を紡ぐ。噛み締められた柔らかそうな唇は血の気を無くし、きつく握られた拳は、真っ白になっていた。

「………いや、だったら、ごめんな」

そう泣き出しそうな顔で振り切るように無理矢理笑い、俯いた彼女はゆるゆると帯を解いていく。
今迄の相手の様に焦らすのでもなく、もったいぶるのでもなく。ただ純粋に、葉王の反応を恐れ、結果を先伸ばしにする為の仕草だった。

(いやがられたら、どうしよう)

以前会話したときと同じ想いが、彼女の小さな身体を駆け巡っている。まるで、暗闇に巣くう蜘蛛の巣のようだった。不可視のその細い糸は彼女の心を絡め取り、絞め殺していく。
震える指先がゆっくりと寝巻きの衿に手をかけ、彼女は肩から腰にかけてまでを葉王の眼前に曝した。

「…………」

適度に日に焼けた、健康そうな肌だった。
屋敷にきたときは痩せぎすだった身体も、今は細いながらに年頃の少女らしい丸みを帯びている。
そしてその身体には、無数の刀傷や火傷、鞭で打たれた跡があった。
恐らく、なぶり殺しにされかけた時のものや、拾われた先で受けた体罰の名残だろう。柔らかそうな肌に走ったいびつな傷跡は、葉王の眉を顰させるのに十分なものだった。

………本当に、人間は醜い。

眼差しが冷えるのが自分でもわかる。その僅かの違いを敏感に察したのか、彼女の着物をもつ手がびくりと震えた。

「………こん、なで、ッ……ごめん、な…?でも、あの、っ………………背中、は…たぶん、もっと……酷い、から…」

俯いたまま尻窄みで告げる少女の肩は、小さく震えている。恐らく、泣き出しそうなのを必死で堪えているのだろう。葉王の中に響き続けるのは、少女の心が上げる悲鳴交じりの泣き声だけだ。
数旬の沈黙。逡巡。どう言葉を掛けるか僅かに悩み、戸惑い、口を開きかけて。
そんな彼女を、葉王はただそっと抱き寄せた。

「別に、気にしない」

そう告げた瞬間、少女が息をのんだのが分かる。
震える指先が葉王の背中へと延び、その腕の中で彼女は声を上げて泣き出した。背中に回された腕が、きつく葉王の身体を抱き返してくる。抱きしめた時にみた彼女の背中は、確かに前半身よりも更に酷いものだった。赤黒く変色した、鞭や火傷の跡。細い体には不似合いな、無数の刀傷。性的な暴力を受けなかった代わりに、彼女はその身にただ純粋な暴力を振り下ろされ続けたのだろう。
その肩には、葉王を庇ったときの傷がまだうっすらと残っている。
何かを守るために、葉王を守った時の様に、彼女はその小さな体で立ち向かってきたのだ。たったひとりで。なんの力も持たずに。それでも。
それでもただ、なにかを守るために。

「………………僕もね、君に内緒にしてたことがあるんだ」

そう呟いた葉王に、少女は泣き腫らした目で見上げてくる。
その耳元に唇を寄せ、葉王は簡潔に告げた。自分自身の業でもある、霊視の能力のことを。
それは、葉王が彼女に与えた最初で最後の機会だった。
あの瞬間だけは、彼女が逃げようとしたら本気で逃がしてやるつもりだった。
麻倉葉王という鬼に成り切れなかった人間が、その無垢な魂を逃がしてやるつもりだった。
けれど、彼女は葉王の言葉を聞いた瞬間、予想外の行動に出た。

「………………!?」

ガンッと股間に走った痛みに、葉王は目を見開いた。
思わず彼女を離してうずくまる。情けないと言われようが痛いものはいたい。

「ッ…おまえっ、わかってたんにオイラにあんな恥ずかしいこと言わせたんか…!?」

痛みに呻く葉王を見下ろし、彼女は真っ赤な顔で怒鳴った。その瞳には涙がいっぱいに溜まっている。

「オ、オイラ今だってお前にいやがられたらどうしようって、め、めちゃくちゃ怖かったんだぞ!?あ、あんな恥ずかしいこと言いたくなかったし!からだの、ことだって…!」

涙腺が決壊したのか、彼女は怒鳴り散らしながらもう一度泣き出した。怒りと、嬉しさと、混乱と、恥ずかしさ。それを凌駕する程の、圧倒的な安堵。彼女の心はくるくると色を変え、その中に葉王への嫌悪はない。いやがられないか怖かった、恥ずかしい、良かった、うれしい、でもひどい。そんなことを次々に考えて、彼女は子供の様に泣きじゃくる。

「……ぼくも、こわかったよ」

思わず、つられる様にそう呟いていた。
葉王の言葉に、彼女はぐすぐすと鼻を啜りながらそちらをみやる。

「……ぼくだって、この力のことをいうのは、こわかった」

それは、掛け値のない本心だった。
そんな葉王にてこてこと近寄り、彼女はむぎゅっと葉王を抱きしめた。

「別に、気にせん」

『葉王は葉王だ』。
言葉を追うように続いた彼女の心の声が響いた瞬間、葉王は目の前の唇に自分のそれを重ねていた。恥じらう腕を柔らかく布団に縫い留め、邪魔な着物を取り払っていく。
嫌がる少女の身体を無理矢理反転させ、葉王は傷だらけの背中に繰り返し口づけを落とした。



逃げ出したいのは僕だった



泣きじゃくる少女を、その日初めて腕に抱いた。

===

2015.08.04

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