それは、水の中で酸素を奪われていく様に酷く似ている。 「あたしは魚じゃないわ」 「は?」 唐突なアンナの台詞に、庭で空気イスを指示されていた葉は目を見開いた。 思わず視線を自分へと向けた葉を、アンナがジロリと睨みつける。こちらを向くな、集中しろと、その瞳は言葉よりも雄弁に語っていた。絶対零度の容赦ない視線に射抜かれた葉は、大量の冷や汗を流しながら目にも止まらない早さで顔を正面に向ける。数瞬の沈黙。緊張。ふと、縁側に腰掛けたアンナが手元のストップウォッチに視線を落とす。視界の端でそれを見止めた葉は、内心安堵の溜息を着いた。何も言われないと言うことは、これで問題ないのだろう。 「だから、エラ呼吸なんか出来ないのよ」 「…そりゃあ、できんだろうなぁ」 人間だしな、と葉は独り言の様に相槌を打つ。半分怒られるのを覚悟して答えたのだけれど、それに対してアンナは何も言わなかった。 「アンタなら、どうするの」 「は?」 「呼吸も出来ない水中に、いきなり放り込まれたら」 脈絡のないアンナの問いに、葉はうーんと首を傾げた。こういう聞き方をするときのアンナは、大抵葉が答えを出すまで話を終わらせてくれない。 「そりゃあ、死にたくないから泳ぐだろ」 「無理よ」 「え、なんで」 取りあえず当たり障りのない答えを口にした葉を、アンナはばさりと否定した。 意外な答えに葉が思わずアンナへと顔を向けると、再び鋭い眼差しで睨みつけられる。慌てて顔を元の位置へと戻し、葉は大人しく答えを待つことにした。 「……いくら泳いでも、水面には出れないの」 「どんだけ深いんよ、その海だか池だかは。底無し沼ってことか?」 「そうとも言えるかもね。もしくは……水が詰まった球体の中に閉じ込められた感じ、かしら」 「はぁ…」 淡々と呟くアンナの言葉を、葉は理解し切れないらしい。空気イスの態勢を保ちながらも、うんうんと唸りながら悩んでいる。けれど、アンナにはそれ以上何も口にする気がない。葉から質問されれば出来る範囲で答えるつもりだったが、問われていない事にまで答えるつもりはないのだ。 ……そうでなければ、意味がなかった。 出来うる限りアンナの意志を加えずに、葉自身の言葉で答えが欲しかった。 シャーマンファイトで勝ち抜かせる為に葉の元へ訪れてから数ヶ月が過ぎる。相変わらず緊張感のない葉を鍛えながら、新しくこちらで出来たという葉の友人と過ごす日々は、驚く程柔らかく時間が流れていった。葉を愛していると自覚はしていたし認めてもいたけれど、その平穏はアンナにとって酷く恐ろしい物だった。それは、この穏やかな生活が終わるのではという不安ではない。葉のことは信じているし、アンナ自身、自分が足手まといになる気などさらさらないからだ。もしも自分が葉の妨げになるようなことがあれば、例え葉が構わなくてもアンナ自身が自分を許せないだろう。人質になどされるまえに相手を叩き伏せるか、最悪自分から命を絶つ覚悟だってある。生半可な気持ちで葉の傍にいるわけではない。 けれど、アンナはそんな自分が逆に恐ろしかった。 人を拒絶して生きてきた自分が、命を賭けてもいいと思える程に誰かを愛している。葉の元を訪れると覚悟をきめたとき、その心を事実として思い知ったアンナは愕然とした。葉の為なら命さえ投げ出しても構わないと、何の躊躇もなく当然の様に思った自分が信じられなかった。 それは、例えるなら身一つで水中に放り込まれる恐怖に酷く似ている。 何処までも底のない水中に沈んでいく様な、底知れない恐怖だった。これ程までに愛した葉を失ったとき、果たして自分は正気でいられるのだろうかと思う。 「あたしは人間だから、酸素がなくちゃ生きていけないのよ」 「まぁ、そうだな」 気の抜けた葉の返事に、アンナは何も答えない。 アンナにとって葉は酸素であり、そして逆に、自分を窒息させようとする球体に満たされた水そのものでもあった。今はまだ溺れるアンナの肺を満たしている酸素も、いつか無くなる日が来るだろう。その瞬間に訪れるのは、自我を失いそうな程の枯渇だ。失った酸素を求めながら、深く底のない水に沈んでいるしかない。 「だったらオイラは、なんもせんなぁ」 急に鼓膜を震わせた葉の言葉に、アンナは反射的に顔を上げた。相変わらず空気イスの姿勢を保ち前を向いたまま、葉はへらりと笑ってみせる。 「泳いでもどうにもならんなら、泳ぐのしんどいし」 「………そのままだと、溺れちゃうのよ」 「けど、自分が入ってる入れ物壊せんのだろ」 「ええ」 「じゃあまぁ、無理だな。水風船の中に閉じ込められたら、いくら泳いでも出られんし」 葉がアンナの言葉から連想したのは、どうやら水風船だったらしい。 アンナは思わず、水風船に閉じ込められた葉の姿を想像してしまった。そんな空想の中でさえ、葉はすっかりと寛ぎ、風船を満たした水の中にたゆたっている。その口元に浮かぶのは、アンナの見慣れた緩い笑みだ。 「………アンナ?」 ふと変化した空気に、葉は視線だけをちらりとアンナに向ける。 今までの何処か重いものではなく、そこにあるのは緩やで怠惰な沈黙だった。急に柔らかくなったアンナの気配に、葉は首を傾げる。葉がもう一度声をかけようか悩んでいる内に、アンナはすくっと立ち上がった。 「それじゃあ、葉。あと空気イス5時間追加ね」 「うぇええ!?」 「阿弥陀丸、葉がサボらないようにちゃんと見てるのよ」 『承知』 アンナの呼び掛けに、阿弥陀丸が位牌から姿を見せる。 状況が飲み込めずうろたえる葉を軽く流し、アンナはサンダルを脱いで縁側へと上がった。 「……葉」 襖へと手をかけたアンナが、小さく葉の名前を呼ぶ。 いつもよりも頼りなく響いたその声に、葉は思わず顔を上げた。自分に背中を向けたアンナの表情は、葉から判らない。躊躇うように僅かな沈黙を挟んだアンナは、徐に口を開いた。 「……あたしを殺せるのは、どうもアンタだけみたいね」 それは何処か、水を受け止める器の様な声だと葉は思った。物騒な台詞とは裏腹に、アンナの声音は酷く穏やかに葉の鼓膜を震わせる。 「………はッ」 葉が我に帰って声を上げた時、既にアンナの姿は襖の向こうに消えていた。居間からテレビの音がする。漏れ聞こえる内容から察するに、バラエティ番組か何かだろう。今までの質問でアンナは満足し、何かしらの結論を出したらしい。けれどそれは、何処までも自己完結したものだった。お陰で一方的に話を打ち切られた葉の頭には混乱しかない。 「…………ど、どういうことだと思う、阿弥陀丸」 『さ、さぁ。拙者にはなんとも…』 結局質問の意図が判然としなかった葉は、言い付けられたら空気イス5時間の間中、悶々とした気分を味わうはめになった。 「……………」 ぱたりと襖を閉めて一人になったアンナは、すとんと畳に腰を下ろした。のろのろと伸ばした指先でリモコンを探り当て、テレビの電源を入れる。ぷちん、とかすかな音を立てて漏れ出した音から察するに、放送されているのはバラエティ番組らしい。賑やかなその音はただ鼓膜の表面を掠め、右から左へと抜けていく。ちゃぶ台に頬杖を突いたアンナは、ゆるりと俯いて瞼を落とした。閉ざされた暗闇の中で響くのは、酷く聞き慣れた緩やかな声音だ。 『だったらオイラは、なんもせんなぁ』 へらりと笑いながら答えた葉の言葉が、ゆっくりとアンナの中を満たしていく。 ついでに水風船の中でふよふよと漂う寛ぎきった葉の姿を思い出してしまって、アンナは小さく微笑んだ。想像の中のものとはいえ、それは決して誤ったものではない。 その言葉通り、葉はきっと溺れかけてもなにもしないのだろう。 ただただ全てを受け入れて、母親の子宮に抱かれた胎児のように穏やかな心持ちでいるに違いない。 「………いくら泳いでも水面には出れないなら、溺れてみるのも悪くはないかもね」 口にしてみると、そんな終わりも何だか悪く無いように思えるから不思議だ。 今まで悩んでいたのが嘘の様に、淀んでいた感情が押し流されていく。すっかりと靄が晴れた思考に、アンナはもう一度、葉に向けた言葉を確かめる様に口にした。 「やっぱりあたし、アンタになら殺されてもいいわ」 胸が張り裂ける様な不安が消えた訳では決してない。けれどそれと同じくらいに、穏やかな安堵と愛おしさがこの胸の中にはある。 母親の羊水に抱かれた胎児の様な安寧が、そこには確かに横たわっているのだ。 矛盾の庭 === 愛迷エレジーって曲を聞いてる時に思い付いた話です。 ハオ葉メインと言いつつうっかり葉アンに手を出してしまいました。反省も後悔もあまりしていなくてすみません。 アンナさんは幸せだと逆に不安になっちゃいそうな子だなぁと思ってこんなになりました。 そこを無意識に救ってくれるのは、やっぱり葉くんかなとも思います。麻倉夫婦はやっぱり可愛いです。 2011.08.10 top |