第5話

 令嬢に足蹴にされていた蒼頭は、木曽義絵という武家出身の少女であった。齢は七つで、私達より一つ歳上である。維新で没落した旗本の生まれで、幼いながらも飛鳥様の侍女として奉公をしていた。歳の近い話し相手を兼ねさせる為に公爵殿が娘にお与えになったのだ。然し、実際には飛鳥様は、木曽義絵を都合の良いおもちゃとしての扱いしかされていなかった。そして驚いた事に、当時彼女は侍女の名を覚えておられなかったのだ。彼女にとってそれは知るに値しない情報であり、記憶には残らないのだろう。気の毒な少女は、私が飛鳥様の元を去った時分にはまだ彼女の傍に付いていた。長期に渡って虐待に耐え続けたということになろう。そうしてまで守りたいものがあったに違いないと私は考えた。
 その後長年の間、飛鳥様の召使への仕打ちは収まることはなかった。私が彼女の元を離れる頃も、終ぞ飛鳥様が側用人に親切にしている様子を見ることはなかった。その場で諌めれば一時的に我慢される様であったが、根本的解決には至らないのだ。蝶よ、花よと育てられた彼女の我が儘は、恐らく死ぬまで消えることはないのだろう。私が知る限り彼女は二十人以上の召使を辞めさせておられる。その中で珍しくも辛抱強く耐えたのが、その時私が出会った木曽義絵であったということだ。
 ある時高倉家に仕える女中である、基実という女に話を聞いたことがあった。彼女は主の命令をよく聞いて働く上、元の身分も低くないので母の気に入りであった。私より七つ歳上であったが、落ち着いて大人びた少女であった。他人から干渉されるのを苦とせず、主の命令を絶対と考える。私も、自分の人生を自分で切り開く事が許されていない身分であった。私の未来は両親の物。彼女を手本にして生きていくよう彼らが求めているのがよくわかった。
「基実、お前は、主から理不尽な暴力を受けたらどうする」
 彼女は父の書斎を掃除している最中であった。布巾で父の机を拭く手を止めると、丸い眼を更に丸くして私を凝視した。
「若様は私に理不尽な暴力をお与えになるのですか」
 私は慌てて首を振った。当時私は七つの少年であったが、この基実という少女に好意を抱いていた。その思いは恋と呼ぶには脆弱すぎたが、それでも私にとって彼女からその様な誤解を受けるのはとんでもなく不都合なことであったのだ。
「違う。ただ、どう思うか聞きたいだけだ」
「不思議なことをお聞きになるのですね」
 基実はにっこりと微笑む。仕事をする際はてきぱきとして素早いのに、日常の動作はおっとりとしていて穏やかであった。こうして微笑んで見せる基実の姿は大変愛らしかったのだ。飛鳥様の厳しい一面に嫌気がさしていた私は、次第に彼女の様にたおやかな女性らしさに安らぎを求めるようになっていた。
「私は高倉様にお仕えしている身ですから、ご主人様が私に何をされようと黙って受け入れます」
 毅然とした表情で彼女は言った。基実は芯から召使の気質であったのだ。そして私は、自分もその素質があることを薄々感じていた。両親に命じられれば、好きではない女性の婚約者として振舞う事も厭わない。その時私は、未来永劫自分が彼らの奴隷であろうことを悟った。恐らく自分は、これからも彼らの命令だけで生きてゆくのであろう、と。
「黙って殴られているのか。憎いとは思わないのか」
 私は、飛鳥様に黙って虐げられる木曽義絵のことが気になっていたのだ。
「憎いと思うでしょうし、屈辱にも思うでしょう。それでも私は、主にお使えする身ですから黙って耐えます」
 彼女は私と同じ様に未来を他人に委ねた人間だった。然し私にはない強さを持つ女であった。私は初めて、彼女が華奢なだけの召使でないことを知ったのだ。そしてその後暫く召使と主の関係と、自分の人生に関して頭を悩ませることになる。



- 5 -

| Contents |




「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -