2.兄の姿

 私は妹の頭に手を乗せた。幼かった頃の様に短い髪を撫でてやる。明子は黙って下を向いていた。言葉を紡げぬまま涙を堪え、唇を噛み締めているのだ。
 汽笛が鳴った。
 私には、まるでそれが悪魔の雄叫びの様に聞こえた。私の命の秒読みが始まる。別れがすぐそこに迫る。明子は鋭く顔を上げると、一瞬で涙を拭って私に微笑んだ。母はしゃくりあげ始める。
「十九年間お世話になりました。不肖、神谷風馬、謹んで行って参ります。お見送り感謝致します。二人も、どうか達者で」
 腹の底から出した声だ。二人の心に響いている。女達はそれぞれの思いを抱えながら頷いた。妹はまだ笑ったまま、私を優しく見ている。母は漸く顔を上げて、歪んだ顔を精一杯に強がりの笑顔に変えた。私は最後に愛する者達の姿を胸に焼き付ける。焼き付けて、どうなるのかは知れない。死の直前まで、彼女らが自分の傍に居るのだと信じて逝こう。背筋を伸ばして、私も笑った。家族に見せる最後の姿は凛々しく在りたかった。死ぬのは辛い。別れも辛い。そんなことはおくびにも出さない。
 最後にもう一度敬礼をすると、私は向きを変えて汽車と対峙した。これから私は、死ぬ為にこれに乗る。生きて帰る可能性は考えていなかった。米国に宣戦布告をしてから四度目の夏。日本は死にかけている。今は無意味な悪足掻きを続け、どんな犠牲も厭わないであろう。私の行く海軍も、学徒とてどの様に使い捨てるのかは分かったものではない。それでも、自らの帰還を願ってはいないと言えば嘘になろう。
 黒い車体が私を睨む。気の抜けた音を立てて、汽車が煙を吐く。幼い頃は、この音が好きだった。頻繁に父と連れ立って線路まで見に来たものだ。だが二年前にこの汽車に父を奪われてから、私にとってこれは憎しみの対象でしかなかった。その父も、今年の初めに死んだ。
「兄さん、それでも私は待っていますから」
 妹が背後で呟いた。
「私は死にません。兄さんが戻ってくるまで。安心して戦って来て下さい」
 帰る場所があることを、明子は保証した。私がどんなに言っても、彼女は希望を持つことをやめないのだろう。確かなことなど、この世には何もないのに。だが明子の気持ちは嬉しかった。どんなに長い時が流れても、私の存在は決して彼女の心から消えることはないのだ。
 私は最後に故郷の潮風を吸い込むと、振り返らずに汽車へ乗り込んだ。覚悟が崩れそうで、振り返るのが怖かった。列車が動き出すまでは、窓の外も見なかった。じっと目を瞑り下を向いている。周囲の青年兵士が声を上げて泣いているのは分かった。義朗さん、喜一郎さん、と叫ぶ女達の声が耳に入る。風馬さん、と呼ぶのは一つもなかった。
 汽車が、線路を軋ませてゆっくりと進み始める。窓の外に視線を投げた。数歩先の明子と目が合う。さっきまで笑っていたはずの彼女は表情を歪ませていた。澄んだ瞳からは、後から後から涙が零れ落ちている。強かった彼女の涙を最後に見たのは、何時の事であっただろう。私は、彼女に微笑みかけてやるべきかどうか迷った。然しそれも一瞬の出来事。直ぐに妹の姿は背後へ流されてゆく。学徒を送り出す歓声は更に大きくなり、ついには最高潮を迎えた。何人もの女性が必死に汽車を追いかけて来る。その中に明子はいない。先程の別れの場所に立ち尽くしたまま、千切れんばかりに手を振っている。
 私は咄嗟に窓から身を乗り出した。自分の頭から毟り取った帽子を必死で振る。そして終いに彼女の姿は点になり、見えなくなる。それでも私は、帽子を振り続けるのを止められなかった。



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