1.別れ

 駅は、人々の無理して気丈に振る舞う様な歓声に満ちていた。大きな力によって感情までも支配される民衆の姿は見ていて痛々しい。誰もが薄汚れた肌で、骸骨に薄皮を一枚被せた様な顔をしている。政府は頻りに竹槍の訓練を行わせているが、本土決戦になったとしても食事を満足に摂っていない彼らに勝ち目はないだろう。
 息子を、甥を、兄を、弟を、近所の知人を送り出す怒号が途切れる度に、母の啜り泣きが私の耳に届いた。母は男勝りで常に元気な女性だったから、憔悴した彼女の姿は私にとって悲劇以外の何物でもなかった。普段なら少しばかりの理不尽や悲しみは笑い飛ばすか、その原因となるものを罵倒して済ましてしまうのが常であったのに。
 私の見送りは、母と十四歳の妹二人だけであった。硫黄島へ行った父が反戦主義だった為、隣人どころか親戚さえも私達家族には近寄らなくなっていたのだ。遠い昔、まだ周囲にも人がいた頃に母は、女性にとって他者との付き合いが一番の楽しみであると言っていた。母はそれを奪われてしまっているのだ。然し母はそんな逆境を、過干渉がなくて良いと笑った。空元気を続ける母を支えながら、年々小さくなってゆく彼女の背中に寂しさを覚えている。だが私のその想いを敏感に感じ取った母は、この様な状況はかえって家族の絆を強くするのだと私に笑った。周囲から白い目で見られる生活が、辛くないはずはないのに。
 夏の空気は湿っていた。私が生まれ育った街は、海風を強く受ける。駅からは広い海と対峙した犬吠埼の灯台が見えた。あの海原は、父の死んだ島とも繋がっているのだろう。そして、私がこれから死ににゆく場所へも。
「兄さん、行ってらっしゃい」
 母が憔悴している分、妹の明子が元気よく声を上げてくれた。五歳も年下でありながら、私を励まそうとしてくれている事がよくわかる。幼いのに他人を思いやれる彼女は、私にとって誇りである反面、無理をさせていやしないか常に気遣いの対象であった。
 だが、最後は笑って行こうと決めていた。私が二度と帰って来ないであろう事を予感していたのは、彼女も同じだ。笑顔を崩さない妹に向かって背筋を伸ばすと、敬礼をして見せた。明子は大きく頷くと悲しみも涙も奥に潜ませ、自分も敬礼をした。私がいなくなっても、彼女達は気丈に生きてゆくだろう。妹はまだ若い。母もきっと直ぐに、悲しみから抜け出す。
「明子」
 妹の名を呼ぶと、私は彼女の細い体を抱き寄せた。もう何年も、こうして妹の体温を感じたことはなかった。背中に当てた手から、鼓動が伝わる。明子は生きている。そして私も、きっと生きている。これが最後になる事を分かっているのであろう、彼女も私に応えて抱きしめ返した。
「明子、俺はもう帰らぬものだと思え。余計な期待は抱くな。強く生きろ」
 耳元で囁くと、明子は驚いたかの様に息を吸い込んだ。肩が一瞬、大きく上がる。だが直ぐに呼吸は正常に戻り、小さな声で返事をした。母には、きっと帰ると告げた。私と父の帰りを待つことが、彼女の生きがいになると思ったからだ。母はもう十分頑張った。心が擦り切れる程に、生きてきた。ここでそれを奪うことは、私には出来なかった。
 だが明子は違う。彼女もその年の娘にしては大変な苦労を強いられている。押し潰されそうな程苦しんでいるのを私は知っていた。だがまだ、希望に縋って引き摺られながら生きる時ではない。彼女は先が長い。無意味な期待を持たせる方が残酷だ。



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