(中略)

「ねぇ、リュウヤ」
 藍は思い切って日向に、愛音という言葉の正体を尋ねてみることにした。嶺二と付き合いの長い彼なら、何か知っているかもしれない、そう考えて。
「アイネ、って何?誰かの名前?」
「…っ」
 隣に座っていた日向の腕が、微かに痙攣した。
「さっきレイジがボクを見て、何度も繰り返し言っていたから気になって。リュウヤはレイジと付き合い長いから、何か知ってるんじゃないかと思って、訊いてみたんだけど。リュウヤも知らない?」
「……」
「リュウヤ?」
「愛音は…」
 何処か言い難くそうに、日向が口籠もる。
「愛音は、アイツの、嶺二の親友だったヤツの名前だよ」
「え?」
 瞬間、藍の思考も動きもフリーズする。
「愛音――如月愛音は、嶺二がうちの学園に通っていた頃からの同級生さ。アイツはAクラスの問題児、如月はSクラスの将来有望視された優等生だった。クラスは違ったけど、寮の同室ってこともあってか、何時もつるんでた。本当に仲が良かったんだぜ、アイツ等」
「……」
 先程から藍は日向の言い回しが、妙に引っ掛かっていた。
『愛音は、アイツの、嶺二の親友だったヤツの名前だよ』
『本当に仲が良かったんだぜ、アイツ等』
 日向が齎す愛音に関する情報は、何故か全て過去形で語られていた。
「それで、そのアイネは、今どうしているの?」
 嶺二と親友だったのなら、今だって交流はあってもおかしくないはずだ。そう思って、日向に問い掛けた。
「……したんだ」
「え?」
 信じられぬ台詞を聞いたような気がして、藍は顔を上げて、思わず日向を見返す。
「如月は失踪したんだ」
「失踪…?」
 その言葉の意味は、行方をくらますこと。また、行方が知れないこと。
 藍の言葉の反復に、ゆっくりと日向が頷く。
「如月は元々ナイーブで感受性の強いヤツだったんだ。美風、お前、HSPって知ってるか?」
 何かの略語であるのは直ぐに分かったが。藍は暫く思考を巡らせてから、日向に知らないと答えた。
「HSP――Highly Sensitive Person 直訳すると『高度に感受性の強い人間』。感受性が人より強過ぎる、敏感な気質をもつ人のことだ。正に如月がそうだったんだ」
 日向の話によると、愛音は外界からの感覚的、感情的な働きに、人一倍敏感な体質で、周囲の機微にも過度に反応してしまっていたらしい。
 そんな愛音が、失踪する原因となったのが、一つの映画の出演だった。その作品で、愛音に与えられたのは、とても難しい役。それを演ずるにあたり、愛音は相当悩んでいたという。そして彼は、クランクアップを待たずに、忽然と姿を消してしまったのだという。
 その時の嶺二の塞ぎ込みっぷりは酷かった、と、付け加えるように日向が教えてくれた。
「アイネに何が起こったのかは粗方分かったけど。じゃあ、どうしてレイジはボクに向かってアイネなんて言ったの?」
 あんなに懐かしむような、けれど、とても切なそうな瞳で。嶺二のあのような表情、藍は初めて見たような気がした。
「似てるんだよ、如月に」
「ボクが?」
「ああ。正確には、似てるなんてもんじゃない。瓜二つなんだよ、お前。声も、容姿もな」
「…え」
「さっきお前に、嶺二のここ何年かの記憶がすっぽり抜け落ちているって話したよな?」
 あくまでもこれは俺の見解だが、と前置きをした後で、日向は言葉を続ける。
「恐らくアイツの中では、如月が失踪した辺りまで記憶が戻ってしまっているのかもしれない」
「……」
 日向のこれまでの説明で、凡そのことは合点がいった。
 あんな瞳で見つめていたのは、自分とそっくりな愛音だと思っていたから。あんな切なげだったのは、失踪したと思っていた相手が、突然目の前に現れたから。
 けれど今の嶺二の記憶には、藍は存在していない。二人で刻んできた沢山の思い出は、彼の中では全て、無かったことになってしまっているのだ。
 まるで重い現実が伸し掛かってきたような錯覚に、藍は陥る。
 自分は彼に一体、どう接していったらいいのだろう?自分の存在を忘れてしまった相手に。
「実はお前に、頼みがあるんだ」
「え?」
「アイドルである『寿嶺二』が記憶喪失だとマスコミに嗅ぎ取られたら大変だ。このままこの病院に入院し続けるのも、他の患者の人に感付かれる可能性も高い。それに病院側にも迷惑を掛けてしまう。だから、出来るだけ早く嶺二を退院させて、自宅療養させてやりたいんだ」
 確かに日向の言う通りかもしれない。曲がりにも嶺二は、名の知れたアイドルだ。もしも今回のことがマスコミにリークされ、病院に報道陣やファンが押し寄せたら、大変な騒ぎになってしまうだろう。嶺二の精神面、身体面にも悪影響を及ぼすことだって否定は出来ない。
「勿論、嶺二を実家に帰らせることも考えたんだが、アイツ、今はあんな状態だろ?だから、お前には如月のフリをして貰って、嶺二のことを頼みたいんだ」
「アイネのフリを、ボクがする…?そんなこと、する必要あるの?」
「今のアイツは、学生時代直後の嶺二なんだ。そして、その時のアイツの心残りが如月だ。トラウマとでもいうべきかもしれない。如月愛音は生きていた、それをアイツ自身が身を持って知れば、記憶喪失の症状にも良い影響を与えられるんじゃないか、という考えに至った」
「……」
「こんな状況下で、お前に頼み事など酷かもしれねぇが、美風、頼まれてくれないか?」
 流石に即答は出来そうに無かった。



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