春のゆくへ 香月 伊吹


 昔から春歌は人と接するのが苦手だった。知らない人ばかりがたくさんいるだけで足が竦んで動けなくなってしまって、だから友だちなんてほとんどできなかったし、高校だってあまり通うことが出来なかった。
 そんな性格だったから、高校三年生になって進路の選択を迫られた時に、どうすればいいのかわからなかった。


 夜、自分の手のひらを眺めて考える。
 今から必死で勉強して、大学に行ったとして、自分は無事四年間通うことはできるのだろうか。いや、きっと難しいだろうと春歌は思う。高校を卒業したばかりの春歌には、もちろん手に職などあるはずもない。
好きなことは、ピアノを弾くこと。それから、音楽を作ること。
 ならば音大や専門学校に行けばいいと言われそうだけれど、見学に行って思い知った。あそこは本気で音楽を仕事にしたい人が行く戦いの場所だ。春歌のように、ただ音楽が好きなだけの人間が行く場所ではない。
「このままで、どうする気なの?」
 担任の先生も、進路指導の先生も、友だちの少ない内気な生徒を最後まで気にかけてくれた。でも、どうする気なのかと聞かれても、どうしたらいいのかわからないのだから、どうしようもない。
ただわかるのは、このままではいけないということ。
進学をしないのなら、働かなければならない。
本当は、人がたくさんいる場所を歩くのはとても苦手だ。けれど、手に職の無い春歌が働く場所として、まず無難で募集もたくさんあるのは販売系の接客業だろう。
けれどそれは、内気で大人しい性格の春歌にとって、接客業は自分には向いていないと感じる職種の筆頭だ。特に若者向けのファッションビルに入っているようなショップは、客として足を運んでさえ、どこか気後れを感じてしまう。同じ理由でおしゃれな雑貨屋さんやジュエリーを扱うお店もハードルが高い。かといって、作業の速さや効率を求められるコンビニエンスストアをファミリーレストランは、もっと無理そうな気がした。
 せめて少し年配の方なら、速さよりも丁寧な対応を求めるのではないだろうか。そう、例えばデパートに行くような方なら。少なくとも、ごくたまに春歌を連れてデパートに買い物に出かける祖父母はそういう人だし、その時見かける他のお客様もそんな風に見えた。
そういう接客なら練習して慣れればどうにかなるかもしれない。
 そう思って、春歌は電車で二駅ほど離れたデパートに足を運んでみた。


 デパートの大きな自動ドアをくぐると、いつもふわりと香水の香りが鼻をくすぐる。他の多くのデパートがそうであるように、このデパートも一階は化粧品やおしゃれな靴やバッグの売り場になっているからだ。
 どの売り場にもきっちりと完璧なお化粧をした綺麗なお姉さんが、にこやかな笑顔を振りまいているけれど、春歌はこの売り場が少し苦手だ。何故なら、綺麗すぎるお姉さんたちに何だか気後れしてしまうから。高校の卒業祝いに、祖父母に連れられてきたときも、ずっと俯いてばかりいたのは、我ながら少々情けない思い出として記憶に新しい。
 そんなことを思い出して少しばかり顔を赤くしながら、春歌は急いでエスカレーターを探した。祖父母のお供として来ている時ならこのまま上のフロアに行くのだが、今日はいつもと違って下りのエスカレーターに乗る。
デパートの地下の食品コーナーは、出店ごとにアルバイトの求人をしていて、春歌はその求人を見に行こうと考えているのだった。
ずっと昔、春歌がまだ小学生だった頃に、洋菓子屋さんの可愛らしいエプロンドレスの制服を指して着てみたいと言ったら、大きくなったらアルバイトにおいでと店員のお姉さんが教えてくれた。
今となっては、あの可愛らしい制服を着るのはかなり勇気がいるけれど、でもその時のお姉さんの言葉が記憶の片隅にあったから、春歌は今この場所にいる。人ごみは怖くて堪らないけれど、この売り場のざわざわと賑やかな感じはそれほど怖くない。上の階とは違うどこか和やかな雰囲気は、ケーキ屋さんの制服に憧れた子どもの頃のまま変わらない。
「……働くなら、……」
 ゆっくりとフロアを回り、求人を出しているお店を探す。
 まず、お惣菜屋さんは物凄く忙しそうで、自分には無理だと思った。次にケーキ屋さんも、お惣菜屋さん程では無いけれど、次々来るお客様を相手に手際よく崩れやすそうなケーキを包むのは難しいと思う。お茶屋さんはとてものんびりした雰囲気だったけれど、代わりにお客様一人に対しての対応時間がとても長い。知らない人と何十分も世間話をする自信なんて、春歌にはまったく無い。
 どうしよう。やはり自分に接客業は無理なのだろうか。
 そんなことを考えながら、徐々に重くなる足を進めていると、最後にフロアの片隅の和菓子屋さんで募集を見つけた。品揃えは春歌も良く目にするようなお饅頭や、お中元などでたまに目にする箱入りの贈答品から華麗な生菓子まで幅広く、お客様の様子は物凄く忙しそうでも閑散としてもおらず、春歌でもなんとかなりそうな雰囲気だった。


「……あの、すみません。……アルバイトの募集を見たんですけど…」
 勇気を振り絞って、店員さんらしき女の子に声をかける。
「あ、はい。ちょっとお待ちいただけますか? 今、店長呼んでくるので」
同い年くらいだろうか、綺麗にカールさせた紅い髪をきちんと纏めた女の子は、にこにこと愛想よく笑うとぱたぱたと店の奥に消えた。そして少しして、店長らしき人が姿を見せる。
「君がアルバイト希望の子?」
 きちんとアイロンの当たった白いシャツを着た男性は、ぱっと見た感じでは何歳くらいなのかよくわからない。まだ二十代半ばくらいに見えるけれど、にこにこと愛想のいい笑顔はもっと若そうにも見える。店長だというからには、そんなに若いはずはないのだけれど。
「えっと、はい。今日は偶然ここを通りかかったので、履歴書とかは持ってないんですけど……」
 履歴書も持たずに来たことが恥ずかしくて、少しずつ尻すぼみになる声で答えると、店長はにこにこと楽しそうに笑った。
「そう。君は和菓子、好きなの?」
「はい。……とても、綺麗で美味しいです。でも、知識は全然ないんですけど……」
「そっか。でもうちを気に入ってくれたなら嬉しいよ。良ければ明日、履歴書を持ってお昼過ぎに来てくれるかな。デパートの方の決まりで、一応面接しなきゃいけないことになってるからさ」
 そう言って店長さんはカウンターに置いてあった名刺サイズのショップカードと、一つ百円の小さなお饅頭を手渡してくれた。こんな人の下なら、自分でも頑張ることが出来るかもしれない。
 途中で履歴書を購入してから自宅に帰り、春歌はダイニングテーブルに上体を預け、小さな和紙のショップカードを眺める。
少し疲れたけれど、今日は良い日だったような気がして、春歌は頂いたお饅頭をぱくりと頬張ってみた。
「……美味しい」
 これなら大丈夫。何の根拠も無かったけれど、何となくそう思えた。


    ***


 翌日の面接は、拍子抜けするくらい型通りのものだった。
「うん、わかった。じゃあ、採用だね」
 バックヤードで履歴書を見せ、いくつか簡単な質問に答えると、店長はにこりと笑ってそう言ったのだ。
「え? えっと……、いいんですか?」
 あまりにあっさりと採用を告げられ、自信など欠片も持っていなかった春歌は思わず尋ねると、店長は不思議そうな表情で首を傾げた。
「だって履歴書には何の問題も無いし、愛想も、まぁ、大丈夫そうだし。何より爪が短くて清潔だからね。断る理由が無いじゃない?」
 言われて、春歌は自分の手を見つめる。ピアノを弾くから、手のひらは大きくて厚い。それに指はごつごつと筋張って、指先は切れたようにまるっこい。もちろん爪を伸ばすなんて論外だ。
だから、女の子らしい、綺麗で可愛らしい手とは言い難い、春歌の手。
大好きなピアノの弾く為の手を評価して貰えたのが、とても嬉しい。
「そういう訳で、僕は寿嶺二。この『和菓子舗 花鳥風月』早乙女百貨店の店長です。これからよろしくね」
「は、はい。こちらこそよろしくお願いします!」
 椅子から立ち上がり、春歌がぺこりと頭を下げると、嶺二もひょいと掛けていた椅子から腰を上げた。
「じゃ、フロア長のところに行こうか」
「フロア長?」
「そ。僕は花鳥風月の社員だから、君の採用を決定することが出来る。だけど、ここはでデパートの中の一店舗だから、デパートの方の社員さんの許可もまた必要ってわけ」
 だから、その顔見せに行かないと。説明をしながらすたすたと歩き出した嶺二を、春歌は慌てて追いかけた。
 向かった先はフロアの隅にある小さな部屋で、階段の真下に当たるだろうその部屋は、斜めになった天井も息苦しい非常に狭い場所だった。
「フロア長。花鳥風月の寿です」
 嶺二が声をかけると、部屋の一番奥でパソコンを叩いていた人がくるりと振り返る。じろりとこちらを睨んだのは、金髪碧眼の外国人だった。
「…………!」
 フロア長が外国人だとは予想もしていなかった春歌は、思わず嶺二の背後に隠れるように、その場から一歩だけ後退る。
「あぁ、昨日話していた新人か。ここに連れてきたということは、採用決定だな?」
「そうだよ。可愛い子でしょ」
 嶺二の軽口を無視して、フロア長は春歌を軽く一瞥すると、手元の引き出しを開けると、何かを取り出して春歌に向かって無造作に投げた。
「!」
 慌てて受け取ると、てのひらに収まるくらいの小さなそれは、店員たちがつけているプラスチック製の小さな名札だった。
「いいか。一度しか言わないからよく聞けよ。その名札はこのデパートで働く人間の証明書のようなものだ。絶対に無くすなよ」
「は、はい」
 その迫力に圧倒され、春歌は小刻みに何度も小さく頷く。これを貰うことができたということは、合格と思っていいのだろうか。
「えっと、ありがとうございます……」
「……ふん」
 どうしたらいいのかよくわからないまま、春歌が頭を下げると、フロア長はもう春歌に興味を失ったように、パソコンに向き直ってしまった。そして思い出したように振り返って嶺二を見る。
「ところで、寿」
「何ですか?」
「新作はどうなっている?」
「あと一週間くらいで来るよ。月変わりだからね」
「そうか」
「楽しみにしててよ。次は自信作だから」
「お前のところは自信作しかないのか?」
 フロア長の皮肉っぽい台詞に、嶺二は自信に溢れた笑顔で答えた。
「うちの店はいつだって最高に綺麗で美味しいものを作ろうと、職人たちが頑張っているからね。美味しくて当たり前じゃない」
 それじゃ、失礼します。
嶺二は少し意地の悪そうなアクセントをつけてそう言うと、軽く頭を下げて春歌を部屋から出るように促す。最後にちらりとフロア長が不機嫌そうに舌打ちをするのが見えて、春歌は少し怖くなる。
「あの、寿店長……」
「何かな?」
「フロア長……。」
 怒っていませんでしたか。
 言外にあれでいいのかと問うと、嶺二はからからと笑った。
「カミュなら、いつもあんなだから気にしない気にしない。すぐ慣れるよ」
「フロア長はカミュさんって言うんですか?」
「そう。大学の時からの知り合いだから、もう何年になるかな……。まさかこんなところで会うとは思わなかったけどね。」
 あの歳でフロア長とか凄いよね。偉そうなのは伊達じゃないってことか。
 楽しそうに話しながら、嶺二は少しだけ真面目な顔をした。
 しかしそれも一瞬のことで、すぐに嶺二はいつもの軽い調子で、店に戻る道すがら生時代の思い出話を面白おかしく話してくれた。
それから再びバックヤードで先輩アルバイトの渋谷友千香を紹介され、春歌はその他のこまごまとしたことを彼女から教わることになった。
「先輩って言っても同い年だし。バイト始めてからもまだひと月くらいだから、わからないことも多いんだけどね」
いだから、わからないことも多いんだけどね」

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