my sweet home
「……音也。音也、起きて下さい。お願いします、音也っ」
「……う、ん?な、に?どうしたの…、トキヤ。こんな朝っぱらから……。俺、もう少し寝てたいんだけど」
時刻は朝の八時を僅かに過ぎた辺り。
たまのオフは、昼までゆっくり寝ていよう――などと決め込んでいた音也だったのだが。不意に身体を何度も揺さ振られ、その細やかな計画は断念せざるを得なくなってしまった。
重い瞼をゆっくり開いた先には、困惑した面持ちのトキヤが映る。
「トキヤ?どうしたの?何かあったの?」
余りに覇気のないその表情に、眠気が何処かへ吹っ飛ぶ。一体何事かと、声を掛けずにはいられなかった。
するとトキヤはベッドの脇にそのままへなへなと力無く座り込み、未だ横たえた状態の音也へと視線を向けてくる。
「……音也」
「なに……?」
トキヤのこの表情だ。余程のことがあったのかもしれない。
もしかして、仕事先で誰かに嫌がらせをされた、とか?――いや、この業界に長く居る彼のこと。ちょっとやそっとのことではへこたれない精神力を持っているはず。そうで無ければ、この業界に長く居続けることなど出来ないはずだから。ならば、どういうことだ。どんな理由が彼をこんな不安げな顔にしているのだろうか?
音也の胸に一抹の不安が過ぎる。
相手から紡ぎ出される言葉を、音也は固唾を飲んで、ただ静かに待つ。
「あの……私…、どうやら妊娠したみたい……なのですが」
「……はぁっ?」
それは突拍子も無く、且つ、自らの予想を遥かに超える台詞だった。暫しの沈黙の後、勢い込んで起き上がった音也の頭の中は、その文字の表す通り、真っ白になっていた。
「い、今、何て言ったの?」
「だから、妊娠と……」
「えぇ〜っ!」
衝撃的な答えに、音也は即座には意味が理解出来なかった。
その面持ちは、トキヤ以上に戸惑っているかのようだ。
いや、実際そうなのだろう。
音也は普段からこのような思案を巡らす行為は得意な方では無い。おまけに思考回路は先程覚醒したばかりで、早々に普段通りの機能は期待出来そうになかった。
それに、思い詰めた様子で話を切り出したトキヤだって、何時もの冷静さを欠いているようにも見受けられた。こんな調子では、まともな精神状態とは言えないだろう。
そんな二人の状況下では、案の定、速やかに会話が成立するはずもなくて――。
「に、妊娠ってことは、つまり、赤ちゃんが出来たってこと……だよね?」
「……はい」
「でも……。妊娠ってさ、女の人がするんじゃなかったけ?」
「……一般的には、そうですね」
「トキヤ……ってさ、男……だよね?」
「何を今更、分かり切ったことを訊いてるんですか」
「ごめん、そうだよね。でも、妊娠したんだよね?」
「……えぇ」
「トキヤが?」
「……はい」
「男なのに……?」
「その様です」
「けど……、トキヤは男で」
相手が何を言っているのか、自分が何を言いたいのか。頭の中がめちゃくちゃだ。何が何だか、訳が分からない。
押し問答を何度か繰り返した後、お互いに顔を見合わせて、黙り込むこと約数分。
先に落ち着きを取り戻したのは、トキヤの方だった。
未だ茫然自失の状態の音也に、これまでの経緯を徐に語り出した。
[newpage]
トキヤはこの日の前日からドラマの撮影が入っており、都内のとあるスタジオに赴いていた。いつも通りに与えられた役を演じ、何の問題も無く撮影は順調に進んでいた。あとワンシーンでこの日の撮影終了というところで、異変は起こった。突然、嘔吐感がトキヤの身体を苛み、うずくまってしまったのだ。
彼の不調の訴えに、現場は一時騒然となった。だが、丁度そこに居合わせていた、トキヤの友人の一人であり、今回のドラマの共演者でもある聖川真斗が医術の心得があったことが幸いし、彼の妊娠発覚へと繋がることとなったのだ。
トキヤの回復を待って撮影は再開され、この日の仕事は無事終了した。
その後、トキヤはちゃんとした検査を受ける必要があった為、真斗付き添いの元、彼の知り合いの病院へと向かった。
診断の結果、現在妊娠中と判明。そして、何か外的な要因により自身の身体が中性体へと変化してしまったという驚くべき真実を、自らも知ることとなったのである。
「――と、いう訳なんですが」
トキヤが全て話し終っても、音也は相変わらずで、ずっと押し黙ったままだった。
「……音也?」
「……うん」
「……」
明確な反応を示さない音也に対して、やはり話さない方が良かったのかもしれない、とトキヤは聞こえないくらいの小さな声で呟き、自嘲気味に笑った。
それから、一つ小さな息を漏らすと、ふと顔を上げて、吹っ切れたような――でも、何処か切なげな表情を音也に向けてくる。
「すみません、いきなり変な事を言って……。こんな話、ただ貴方を混乱させるだけですよね」
「……」
「私、生みませんから……」
「……生、……まない?」
弾かれたように見つめ返してきた音也に、その瞳は途端に曇り、耐え切れぬ様子で顔を逸らしてしまう。
「生まない、ってどういう事だよ、トキヤ」
生まない=子どもを堕ろすという意味であることは、幾ら自分の思考回路が正常に機能していなくても容易に理解出来た。
音也が分からないのは、その理由だ。
トキヤは何故生まないという選択を、自分に何の相談も無く出してしまうのか。
その理由をちゃんと伝えてくれなければ、こちらは何も分からないままだし、納得のしようもないではないか。
顔を逸らしたまま何も言おうとしないトキヤに、音也が答えを促す。
「ねぇ、トキヤ。お願いだから、俺にも分かるように説明して。じゃないと、俺、お前の苦しみも分からないままになる。不安も理解出来ないままになる。そんなの、俺はイヤなんだ。だから」
「……音也」
音也の真っ直ぐな瞳と言葉に促される形で、トキヤは意を決した表情で、その重い口を開いた。
「……お腹の子が、貴方の子だとは、………限らないからです」
苦しげに発したトキヤの一言に、音也ははっとする。
「音也、この話は、以前、貴方にも話したことがあると思うのですが」
「……もしかして、あの時の」
「えぇ」
二人が付き合い始めた頃、これだけは貴方に告げておかねばならない、とトキヤに打ち明けられたことがあった。彼がHAYATOとしてまだ活動していた時期、番組プロデューサー等から個人的に様々なことを強要されていた事実があったらしい。
無理難題を与えられたり、セクハラされることもしばしば。果ては、身体を要求されることも。
勿論、このようなやり方は彼が所属している、社長の意向では無い。というより、社長やマネージャーは何一つ知らないことだった。それも事務所には告げぬよう、相手側から固く口止めをされていたのだ。
言うことを聞かねば。社長に告げ口をするようなことがあれば、事務所を潰し兼ねない――と、そのような脅迫を受けて。そんな事を言われたら、トキヤは相手の要求を呑む外無い。
幼い頃から世話になっている事務所。恩も義理もある。これ以上、自分のことで迷惑を掛けたくはなかった。当時のトキヤに、圧力を跳ね退ける力も、他の選択肢も残ってはいなかったのだ。
「今日診て頂いた医師の先生にも言われました。私の身体が中性化してしまった要因は、外的なものではないか、と。確かに私には、思い当たる節がありました。あの頃私は、様々な違法薬物を投与されていましたから、恐らくそれが原因ではないかと」
「……」
彼にとって、その時の生活は、何より辛く苦しく、深い哀しみの連続だったに違いない。
ずっと一人で悩み続け、ずっと一人で耐え抜いてきたのだ。自分に打ち明けるまで、誰にも、何も言わずに、たった独りきりで。
そう考えたら、音也の胸は締め付けられるように激しく痛んだ。
「トキヤ……ッ」
音也は不意にベッドから抜け出ると、トキヤの直ぐ傍へと膝をつき、両の腕で彼の四肢を自分の方へと引き寄せ、優しく包み込んだ。
「音也?」
「ごめん、辛い過去を思い出させるようなこと言って。最初のお前の一言で、気付いてやるべきだったのに。本当、自分のバカさ加減に呆れた。自分に幻滅した」
「いえ。貴方が気に病むことではありませんから」
「……ねぇ、トキヤ」
「……はい」
「生みなよ」
そう呟いて、音也は僅かに身体を離し、トキヤの瞳を見据える。そして、先程と同じような台詞を、今度ははっきりと口にした。
「生もうよ、トキヤ」
「あ、貴方、何を言って……。その言葉の意味、ちゃんと理解してるのですか?よく考えもしないで、そんな簡単に」
「別に簡単になんて出してない。勿論、俺なりに考えたよ。でも、幾ら考えたって、時間掛けて考えたって、俺が辿り着く答えなんて、どうせ一緒なんだ」
そう。どんなに考えたとしても、自分が行き着く結果は同じもの。
音也には、トキヤにお腹に宿った命を生んで欲しいという答えしか出て来ないのだ。
「ですが……。もしかしたら、貴方の子ではないかもしれないのですよ?だって私は、以前に他の人とも……」
「何、バカ言ってるんだよ!」
「え……?」
驚愕したトキヤが、こちらを見返してくる。
「だって、お前の子だろ?だったら、俺の子でもあるよ」
「しかし……っ」
「しかし、じゃない。それ、トキヤの悪い癖だよ。そうやって、いつもいつも一人で何でも抱え込んで、勝手に自己完結しちゃってさ。何の為に俺が居るんだよ。お願いだから、もっと俺を頼ってよ。もっと俺に甘えてよ」
「……音也」
「血が繋がってるとかいないとか、俺にはそんなの、この際関係ないんだ。トキヤの中に小さな命が宿って、お腹を痛めて生んだ子なら、俺の子だよ。俺はその子もお前と同じように愛するよ。大切にする。だって俺は、トキヤが好きだから。大好きだから。――だからね、生もう?一緒にその子の親になろう?」
真摯な瞳でトキヤを真っ直ぐ見詰めた後、音也は更に言葉を続ける。
「それともトキヤは、こんな俺じゃ力不足だと思ってる?親になれないって思ってるの?」
自嘲気味に放った音也の言葉に、トキヤは何度も首を左右に振り、否定の意思を示してきた。
「……そんなことありません」
視界に映る愛しい人の瞳が次第に潤み、僅かに顔を伏せた。すると、一滴の透明な雫が頬を伝い、はらりと静かに流れ落ちて行く。
「……ありがとう、音也」
涙混じりの声で呟くと、トキヤはそっと胸に顔を埋めてくる。
「トキヤも、お腹の子も、俺が必ず守るから。ずっと守っていくからね」
音也は彼の拭い取れぬ過去を、その思いまでも受け止めるかのように、両の腕で優しくその身を抱きしめたのだった。
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