きみの呼ぶ声


(中略)

 バスを降りた途端、柔らかに新緑が薫った。
 チャリティーライブ当日は、見事なまでの晴天だった。雲一つない蒼穹。強い陽射しが、足元に濃い影を落とす。
 市街地から少し離れてるせいか、木々の緑が鮮やかに映える。緑と、そして澄んだ水色の空。何て綺麗な色だろう。
 ライブ会場までは、坂道。
 坂、というよりは、斜面といった方がより正確かもしれない。
 春歌と二人。そんな長く続く斜面を、ゆっくりと歩いて行く。

「愛音さん、大丈夫ですか?」

 僕の隣を歩く、春歌が訊ねてきた。

「うん、平気だよ」

 歩くことには慣れてる。というより、以前よりも歩くことが好きになったかもしれない。
 ちょっと前までは、ずっと長い間使って無かった両足を使う為、運動不足にならない為、なんて理由で、半ば義務感で歩いていたけれど。今では散歩が、趣味の域に達してる気がする。

「僕なんかより、春歌の方がずっと大変そうに見えるけど、平気なの?」

 息も切れてるし、歩く速度も徐々に落ちてきているし。

「私は、だ、大丈夫です。会場までもう少しですから、もう一踏張りです」

 僕の言葉に笑顔で応じる、春歌。でも、明らかに疲れてるように僕には見受けられるんだけど。もしかして、昨日も遅くまで作曲していたりしたのかな?
 彼女に訊ねようとしたら、不意に賑やかな音楽が耳を掠めた。
 これは……ロック。蘭丸の曲?でも直ぐに歌っているのは、彼ではないことに気付いた。だって蘭丸は、もっとパワフルで、鋭くて、観客の心を鷲掴みするような歌声をしてるから。

「この近くで路上ライブをしているみたいです。今歌っているのは、黒崎先輩の曲ですね」
「路上ライブ?」
「はい、時々いらっしゃるんですよ。ライブ会場付近の公園などで、デビューを夢見て歌う、未来のアーティストの卵さんたちが」
「へぇ……」

 歩を進めるにつれ、音楽は少しずつ大きくなっていく。
 確かにまだ演奏は荒削りで、歌はお世辞にも上手いとは言えないけれど。でも、音楽が好きだという強い気持ちは、奏でる音から凄く伝わってきた。
 まるであの頃の僕らみたいだ――なんて。
 ふと、学生だった時の頃を思い出してしまう。夢を追って、早乙女学園の門を叩いた、友人たちのとの想い出を。
 今はみんな、何をしているんだろうか?ちゃんと夢、掴んだんだろうか?

「……愛音さん、どうかなさいました?」

 春歌の声で、僕は我に返る。

「ううん、何でもないよ。ちょっと昔のことを思い出してただけ」
「昔のことを……ですか?」
「うん。僕が早乙女学園の学生だった頃のことをね」

 そう。まだ親友とも、友人とも笑い合えていた、あの日のことを。

「愛音さんもアイドルを目指していたんですよね。いつか、愛音さんの歌、聴いてみたいです」
「え?」

 そんなこと言われるとは思っていなかったから、思わず聞き返してしまった。

「あ、すみません。出過ぎた口を利いてしまい……っ」

 恐縮する春歌に、僕は首を横に振る。

「ううん、気にしないで。そうだね、僕もまた歌えたらいいな」

 なんて、春歌にはそう言ったけれど。僕は過去に一度、全てを捨てた身。そんな自分が、また歌を歌う姿なんて想像出来なかった。というより、僕なんかが歌ったら、きっと神様だって良い気はしないだろう。この世界を裏切ったのは僕の方だから。
 坂を暫く登って、一つ目の角を曲がると、一気に視界が開けた。

「愛音さん、着きましたよ」

 彼女の言葉の通り、視線の先には、人波。
 いや、違う。人波ではなく、これは人混み。その方がしっくりくる。雑然としていて、ごちゃ混ぜで、でも陽気で賑やかな人の群れ。
 暫し、僕は茫然と立ち止まってしまう。
 野外のライブだとは藍から前以て聞いていたけど、これほど大きな規模だとは思っていなかった。正に予想外だ。

「では、皆さんが居る楽屋の方へ向かいましょうか」
「うん」

 こくり頷いて、春歌の後をついていく。
 人波を掻き分け、掻き分けて。こういう雰囲気は慣れてないから、もう歩くだけで精一杯だった。演奏が始まると、それはもう大変で。本当、やっとの思いで歩いている感じだった。

「七海ーっ!愛音ーっ!」

 人波の向こうで、僕たちを呼ぶ声がした。ふと視線をやると、人の群れの向こう側に、藍の後輩の翔が。何時もと雰囲気が違うのは、眼鏡を掛けているせいか。彼なりの変装?服装もかなりラフだった。出演はまだなのか、それとも。

「こっちこっち。二人共、早く来いよ」

 そう軽く言われても困る。人波を掻き分けて進むのは、それなりに大変なんだけど。

「二人揃って、結構要領悪いんだな」

 やっと辿り着いた僕らに、翔は笑いながら声を掛ける。

「すみません。私、こういう状態に慣れてないもので」
「僕も……」

 余り人の多い場所へは積極的に出掛けはしないし。満員電車だって乗ったことだってない。

「でも二人が無事会場に辿り着けて、良かったぜ。愛音、ようこそ、チャリティーライブへ。ほら、これ」

 言って翔に何かを差し出された。

「藍のヤツから預かったんだ。お前が来たら渡して欲しいってな」

 翔から受け取ったのは、二人分のパスと、一枚の紙。
 紙を開いてみると、そこには見慣れた藍の字でメッセージがしたためられていた。
 藍のメッセージによると、自分は仕事が立て込んでいる為案内出来ないらしい。それを詫びる文章と、僕にこのライブを楽しんで欲しいこと。それから最後には、春歌にくれぐれも迷惑を掛けるなと、書かれていた。
 藍が、どれだけ春歌のことを大切に感じているなのか、この手紙一つだけで伝わってくる。

「藍、何だって?」
「自分は仕事が立て込んでるから案内出来ない。愛音は折角来たんだから、ライブを楽しんで行けって。それから、春歌に迷惑掛けるな、って最後に書いてあった」
「え…っ」

 僕の言葉を聞いた途端、隣の春歌が頬を真っ赤に染める。

「七海、本当、アイツに愛されてるよな」
「翔くん、からかわないで下さい」
「からかってねぇよ。だって、本当のことだろ?」

 からかってないという割に、翔は、くくくと声を立てて、楽しそうに笑っていた。

「愛音。実は、悪いんだけどさ」

 ひとしきり笑った後で、翔が少々申し訳なさそうに言ってくる。

「俺、そろそろステージの準備しなきゃなんねぇんだ。本当は七海と一緒に、お前を案内してあげたかったんだけど。悪いな、愛音」
「ううん、ありがとう、翔。僕は平気だから」

 そうやって気に掛けてくれるだけでも、僕にとっては十分有り難いし、嬉しい。

「もうすぐ藍のステージ始まるから、見て行ってやれよ。そのパスがあれば、ステージの袖から見ること出来るからさ」
「うん、ありがとう、翔」
「じゃあな、愛音。ライブ、楽しんでけよ」

 ひらひらと手を振る翔に、僕も同じように手を振り返して、その場を後にした。
 翔と別れた後、僕たちは彼の言っていたステージの袖に向かった。藍のステージを見る為に。
 途中、春歌の知人に何人か会った。彼女の親友や、彼女の友人たちに。何れも、今日のステージに立つという。皆、見ず知らずの僕にも明るく話してくれた。
 ステージ袖に辿り着くと、そこにはきらびやかな衣装に身を包んだ、藍の姿が既にあった。
 出番が間もなくな為か、周囲の雰囲気がかなりピリピリしている。これでは声は疎か、藍に近付くことも難しそうだ。
 ステージから聞こえてくる音が、観客の声に変わる。どうやら、藍の前の出演者が歌い終えたらしい。観客の声援に応え、一言声を掛け、ステージの袖へと駆けてくる。藍と軽くハイハッチを交わし、僕らの横を満足げな表情で通り過ぎていった。
 静かになった会場に、前奏が流れる。イントロで何の曲か分かった観客から、声が上がった。
 これはあの曲だ。春歌が作曲家としてデビューした記念の曲。そして、僕を永き眠りから目醒めるきっかけになった曲。僕の一番好きな、藍の歌だ。
 藍はゆっくりとステージの中心へと向かう。スタンドマイクの前まで歩を進めると、一つ一つの歌詞を大切に、噛み締めるように歌い出した。
 歌が流れる度に、どきどきと。心臓の鼓動が大きく聞こえる。
 そして、身体が熱くなる。
 以前、藍と僕がまだ繋がっていた時。彼は歌に心が宿らないことを悩んでいる時期があった。
 藍には元々心なんて無かったから、無いものを歌に宿らせるなんて、至極無謀なこと。
 だけど、春歌と出会って、沢山の感情を知り、愛を知って、彼の中に奇跡が生まれた。勿論、藍はロボットだ。実際に心を宿すことは出来ない。でも、それに似たものが彼の中で生まれた。
 今ならはっきり言える。藍の奏でる歌には、しっかりと彼のココロが宿っているんだって。
 じゃなきゃ、こんなに僕の心に響いてくる訳がないんだから。
 一曲目を歌い終えた藍が、観客に向かって軽くお辞儀をする。それから、短めのフリートーク。藍は、たった今歌い終えた曲に対する想いを語った。そして、二曲目の曲紹介。再び、イントロが始まる。
 先程とは打って変わって、ポップで可愛らしい曲。藍のまた違った一面を垣間見れるような、そんな一曲だ。
 春歌と二人ステージの袖から藍の姿を見つめていたら、ふとスタッフらしき人が声を掛けてきた。

「あの、作曲家の七海さんですよね?」
「……はい、そうですが」
「作曲家の先生にこのようなことを急にお願いするのは、大変おこがましいのですが、次のアーティストのピアノ伴奏を引き受けては頂けませんか?」
「えぇ…っ」
「実は、担当するはずだったピアニストが、休憩中に過って指を怪我してしまいまして、演奏が出来なくなってしまったんです。他に演奏出来る方を当たったのですが、急な話の為、なかなか見当たらなくて。ピアノ伴奏は次のアーティストで最後なので、どうかお願いします!」

 スタッフはそう言って、春歌に向かい深々と頭を下げてくる。

「あの、頭を上げて下さい」
「七海さん、お願いしますっ」

 スタッフは頑なに頭をなかなか上げようとしない。春歌は困ったように僕の方に視線を傾けてくる。

「春歌、行って来なよ。僕はもう暫く此処で音楽を聴いてるからさ」
「でも……」

 恐らく、僕を一人にすることが心配なんだろう。春歌は躊躇い、首を縦に振ろうとはしない。

「お手伝いしたいんでしょ、その人を。僕なら大丈夫だから」
「愛音さん……。分かりました、行って来ます。お手伝いが終わったら、直ぐに戻ってきますので」
「うん、分かった」

 春歌はスタッフに連れられて、楽屋の方へと歩いて行った。その背中を見送って、僕は再び藍の歌に耳を傾けた。
 暫く静かに藍の歌う姿を見つめていたら、こちらに話ながら近付いてくる声が聞こえてきた。
 一つは見知らぬ誰かのもの。もう一つは、至極聞き覚えのある者もののように思えた。
 その声に導かれるようにゆっくり視線を向けると、そこに居たのは――。

「……ッ!」

 ずっと会いたくて、ずっと会いたくなかった、人物。
 ずっと話したくて、ずっと話したくなかった、存在。
 僕の親友だった人。

「……君は」

 僕の存在に気付いた相手がふと足を止める。声を掛けてくる。
 ごくり、息を呑む。
 僕の姿を確認して、驚いた表情に変わるのに、大して時間は掛からなかった。至極驚いた顔で、相手が僕を見つめ返してくる。

「もしかして、愛音……?」

 自分の名前を紡がれた刹那、鼓動が煩いほど鳴り出した。藍の歌を聴いた時とは比べものにならない程の、高鳴り。

「愛音……なの?」

 昔と変らぬ響きで僕を呼ぶ、その声。
 痛い、痛い。胸が締め付けられるように、痛い。
 相手が、探るように僕に視線を投げ掛ける。僕は相手を見ない。見ようとしない。見れる訳がない。
 途端に、頭が真っ白になる。空白。無。
 僕の思考回路はショートして、最早、何も考えられなかった。これまでの出来事も、今も、そしてこれから先のことも。
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