フリリク企画 | ナノ
夜明けのコーヒー#4




*キス描写あります。






「瑛くん、食器、戸棚にしまっても良い?」
「ああ、頼む」

三月の末。必要最小限の家具と段ボールが詰め込まれた殺風景な部屋を、そこで生活が出来るようにと整えていた。手伝いに来たあかりは持参したエプロンを身につけてシンクに備え付けられたささやかな戸棚に食器の類いを詰め込んでいる。

「……あ」
「どうした?」

あかりの手元を覗き込むと、コーヒーカップを何か大事なもののように手のひらの中に包み込んでいた。

「懐かしい……。瑛くん、このカップでよくコーヒー飲んでたよね」

確かにそれは珊瑚礁にいた頃も使っていたマグカップだった。
そこで気がついた。

「おまえの分のマグカップも用意しなきゃな」
「え?」

引っ越しの荷物は少なかった。一人分の衣類に一人分の食器、家具……両親の反対を押し切ってこの街に戻ってきた。援助を受けるつもりはなかった。早くバイト先を決める必要がある。贅沢は出来ない。でも、コーヒーを淹れるときカップが足りないのは少し、困る。
おずおずとした調子であかりが尋ねた。

「……わたしの分?」
「なかったら困るだろ」
「うん……」

あかりは手の中に包み込んだマグカップを親指で撫でている。壊れ物を扱うように。それから「ふふっ」と小さく笑うと「何だか、照れるなあ」と言った。「何が」と彼は問い返した。あかりは「うーん……」と思案げな声を洩らした。「言えよ」と彼は肘で軽くこづいて促した。彼の肘の追求から身をよじらせて逃れようとしながらあかりはようやく白状した。

「……何だか、付き合ってる二人っぽくって照れるなあって」
「…………」
「そう思ったの」

言葉通り照れくさいのか、色白な少女の頬が軽く上気していた。「マグカップ、ここに入れるね」と戸棚に手を伸ばした少女の手を彼は掴んで引き寄せた。黒目がちな瞳を見開かせてあかりは彼の腕の中で「瑛くん?」と囁いた。

「……っぽい、じゃなくて、もう付き合ってるだろ」

とがめるように軽く頬をつねると「痛い」と言って小さく悲鳴を上げた。決して強くつねった訳じゃない。軽く摘まむ程度だ。

つねった部分を同じ手の指の背で撫でる。規則正しく伏せられた睫毛が持ち上がって黒目がちな瞳が覗いた。引き込まれるように顔を寄せると、数回の瞬きののち、また目を伏せた。指先で頬を顎の輪郭を撫で上げ唇を触れあわせた。

あかりは緊張の為かきつく目を閉じて小鳥のように震えている。彼自身も、自分の心臓が忙しく脈打っているのを意識させられた。まだ、新しい距離に慣れていない。あの日、灯台で交わした言葉を思い出して、彼は自分に言い聞かせた。――これから二人で確かめていけば良いんだ。その時間が自分達にはある。

震えるあかりを安堵させるように頬を撫でた。空いた手も同じく頬に添えて、宥めるように指先で触り心地の良い栗色の髪を梳いた。同じ動作を繰り返すうちに、強ばっていたあかりの体から力が抜けていくのを感じた。触れあわせた唇からも相手の緊張が解れてきたことを悟る。目を閉じて頬を上気させたあかりのやわらかな舌先に舌先で触れた。途端、驚いたように体を強ばらせた彼女が逃げないように肩をつかんだ。触れあうだけの幼気なものから啄むキスへ、それからもっと深いものへと移りそうになって、ごとり、と何か重いものが床に落ちる音が部屋に響いた。海の色を思わせる深い青色のマグカップが転がっていた。「あっ」とあかりは声を上げると、体を離して彼の腕の中から逃れた。マグカップを拾い上げて、ひびが入っていないか確認している。壊れていないことを知って、はじめて安堵したように息をついてみせた。

「良かった、割れてないよ」

大切なもののように青いカップを胸に抱えて微笑みかけてくる姿に、何か触れがたいものを感じて彼は咳払いをした。さっきまでの熱っぽい雰囲気はその笑顔に洗われてどこかに消えてしまったように思えた。

無事だったカップを戸棚に大事そうにしまい込んで、彼女は口を開いた。

「……カップ、持ってくるね」
「え?」
「自分用のやつ。今度、家から持ってくるよ」
「ああ……うん。そうしろよ」
「うん」

互いを強く意識しすぎたような、奇妙にぎくしゃくした空気が、一人用の部屋を満たしていた。久しく油をさしていない機械のようにぎこちなく軋む関節を動かして、彼は荷物の整理を再開した。

横目に見たあかりは軽く鼻歌を歌いながら戸棚を整理していて、こんな風に強く意識しているのは自分だけのような気がして悔しくなった彼は、部屋の空気を入れ換えるように窓を開けた。

春特有のあたたかな風が窓から吹き込む。潮の香りを孕んだ風とは違う、何より潮騒が聞こえない新しい環境に慣れるには、まだ、もう少し、時間が必要なようだった。



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