夜明けのコーヒー#3
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約束の時間はとうに過ぎている。まあそんなもんだよな、と独りごちて瑛は雑誌をめくった。思えば高校の頃からそうだった。
内容を軽くさらう程度に順繰りにページをめくっていく。ある箇所で手が止まった。
海の写真が載っていた。ここよりもっと南にある海の一景。真っ青な空と、空の色をそのまま映し込んだような澄んだ色の海。浜辺を埋めるのは白い砂。
何のことはない、じきに夏休みを控えた季節で、それに合わせた旅行特集のページだ。事情を理解しながらも、彼はその写真から目を離すことが出来なかった。記憶を刺激するものがあったからだ。
(――わたしも見てみたいな)
まだ高校生だった頃、あかりを自室に招いた時のこと。窓枠に腰かけ、秋の風に髪を揺らしながら彼女が言った。――そういえば、まだ見せてやっていない。けれど、それも無理もない。四月から住み始めたアパートから海は見えないのだから。夜明けの海の色を見せてやれるとしたら、直接海まで行くか、あの場所に行くしかない。一日のうちに昇る朝日と沈む夕日を見られるあの丘に。
「佐伯」
よく通る声が彼の背中にぶつかった。肩越しに振り返ると針谷がいた。待ち合わせの相手だ。針谷は片手を軽く掲げて「悪ぃ、遅れた」と言葉とは裏腹に悪びれもせず言った。黒のVネックのシャツを着た針谷は肩に細長のギターケースを抱えている。
「遅い」
「打ち合わせが長引いたんだよ」
開いたままだった雑誌のページに視線をやって針谷は「お、どっか行くのか?」と言った。「別に、そんなんじゃない」と返して瑛は雑誌を閉じた。
「行くか」
「おぅ」
今日は久々に針谷からギターを教わる約束をしていた。高校を卒業してからも何だかんだと連絡を取っている。
練習の後、駅付近のファミリーレストランに入った。ささやかな礼のようなものだ。針谷はカレーとハンバーグで迷った挙げ句、ハンバーグに目玉焼きが乗っていないことに舌打ちしてみせた。
「ハンバーグには目玉焼きだろ……」
心底理解出来ないというように嘆く針谷のことが瑛には分からない。
「どーだっていいだろ、そんなこと」
「どーでもよくねぇよ! 目玉焼きが乗っかってないハンバーグなんかハンバーグじゃねぇよ」
針谷の独特な持論の是非はともかく、いずれにせよ早く決めてほしい。瑛はメニューをめくって「そんなに言うならこれにしとけよ」とロコモコ丼を指さした。グレイビーソーズをかけたハンバーグの上に目玉焼きを乗せた、ハワイ発の丼物。
「目玉焼きは乗ってるだろ」
しばらくのあいだメニュー写真をにらみつけて「丼物のハンバーグ……ハンバーグを丼……はアリか……?」と呟いていた針谷は熟考の末、結論を出したらしい。「それにすっか!」と言ってメニューを閉じた。瑛は呼び出しボタンを押した。
「最近どうだ?」
料理の前に運ばれてきた鮮やかな緑色のソーダ水を飲みながら針谷が言った。それにしても、メニューチョイスがまるきりお子様舌だ。
「別に」
「あかりとは?」
あやうくコーヒーを噴き出しかけた。げほげほとむせていると、向かい側から哀れんだような声をかけられた。
「……その分だと、相変わらずみてぇだな」
息を整えてから「どういう意味だよ」と訊き返した。「あの頃と変わってねーみてぇだな」と言い返される。――そんなことはないと思う。咄嗟に出かかった文句は飲み込んだ。最近、いや入学以来、彼の頭を悩ませている問題で、未だに解決の糸口が見えない上、他人に打ち明けるつもりも相談も出来ない話だったからだ。
関係は変わった。あの日、あの卒業式の日に灯台で再会して告白した。もう手を離さないと誓う彼に、彼女はもう離れたくない、そばにいたいと言って頷いてくれた。……だから関係は変わった。自分の気持ちさえはっきりと自覚していなかった頃とも、相手の気持ちが分からなくて二の足を踏んでいた頃とも今は違う。それなのにまだ、距離が近づいたとは言えない。
「……俺だって色々あるんだよ」
思わずぼやくと、針谷がまるで元気づけるように軽く笑って言った。
「……ま、せいぜいガンバレよ?」
言われなくとも、という言葉はコーヒーと一緒に飲み込んだ。
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