キスとスキと魔。
瑛くんはキス魔だ。心からそう思ったので、実際に口に出して言った。
「瑛くんはキス魔だ」
「何だと……」
夕暮れの橙色と薄紫の夜の色が入り交じった空と海を背景に、瑛くんはじろりとわたしを横目に睨んだ。水平線の向こうに沈みそうな夕日の光を受けて、瑛くんも同じ色に染まっている。今が夕暮れで良かった。赤くなった頬に気づかれないで済む。
「瑛くんのキス魔」
「聞こえてなかった訳じゃないから。……キス魔って何だよ」
「そのままの意味だよ」
瑛くんはキス魔だ。初めて会ったときもそうだった。二度目は……あれは事故だからカウントしないでおこう。だけど、さっきのキスはもう言い訳出来ないと思う。瑛くんはキス魔だ。
「さっきキスしたでしょ」
「なっ……」
波打ち際を隣り合って歩きながら、瑛くんは一瞬確実にうろたえた。言葉に詰まって、ひとつ咳払いをして首筋をさする。仕切り直すように口を開く。
「……おまえだってしただろ」
「わたしは一度だけ、だもん」
それにあのキスは『そういうこと』じゃなくて、子供の頃に交わした約束の再現のつもりだったのだから。やましいことはなくて、ただ、覚えているよ、ということを伝えたかっただけなのだから。
瑛くんがムスッとしながら呟く。
「俺だって、一度だけだ」
「初めて会ったとき、キスしたでしょ?」
「……あっ……あれは、約束のキス、だろ……!」
そう、一度目のキスは約束のキスだった。それじゃあ……。
「さっきのキスは?」
――あれは、何のキスなんだろう?
瑛くんを見上げる。夕日が逆光になって、瑛くんの顔に影が落ちて表情が見えない。幼い頃に出会った男の子のシルエットと今の瑛くんの姿が重なる。瑛くんはあのときの男の子だ。さっき灯台でそのことに気がついた。衝動に駆られて口づけたとき、瑛くんは、おまえも覚えていたのかという風に言った。彼は、一体いつ思い出したのだろう?
――はあ。
瑛くんがため息をついた。そのまま首筋をさすって顔をうつむけてしまったので、本格的に表情が見えなくなってしまった。
「……おまえ、分かってなかったのかよ……」
「え?」
じゃり、と砂を踏む音が耳に響いた。視界に影が落ちて、瑛くんとの距離が詰まった。背中に瑛くんの手のひらを感じる。そのまま引き寄せられた。たたらを踏むように前のめりの格好になったわたしの背中を支えて、瑛くんが屈んだ。頬に、瑛くんの手が添えられている。大きな手のひらだ。赤みの強い、褐色の瞳がまっすぐにわたしを見つめていた。まるで、さっきの再現のようだと、ふと思った。
「……ずっと、こうしたかったって言っただろ?」
低めた、ひそやかな声で囁くと瑛くんは口づけた。やわらかい唇がふれて離れた。
……やっぱり瑛くんはキス魔だ。
心からそう思ったので、そのまま口に出して言った。
「……瑛くんの、キス魔」
体の正面で繋がれた手に、ぎゅ、と力がこもる。怒ったようなしかめ面で瑛くんは「違う」と言った。
「キス魔じゃない。好きな相手にはこういうことがしたくなるんだ」
夕日に照らされていても分かるくらい瑛くんの顔が赤かった。瑛くんの言葉でわたしも同じくらい顔が赤いに違いない。
「て、瑛くん……」
「約束もあるけど……ずっとおまえにこうしたかったんだ」
……だから、と瑛くんは口ごもった。言葉は続かなかったけど、瑛くんが何を言いたいのか、分かる気がした。繋がれた手が熱い。頬も熱を持つ。……イヤではなかった。とても気恥ずかしいけど、決してイヤではなかった。キスというものが、約束のためだけではなくて、ただそれだけが目的でされることなのだと初めて知った。
「わ、分かった……」
「やっと分かったか」
「うん……」
また沈黙が下りた。また距離が縮まる予感がして目蓋を閉じた。壊れ物を扱うようにそっとキスを落とされた。
キスとスキと魔。リクエストして下さった方へ捧げます。→あとがき