○ 「夏だね」 先を歩く背中に向け、言葉を投げかけてみても、返事は無い。返事は別に何でも良いのだけど。夏だね、と言って、例えば、夏だな、とか。暑いな、でも良い。単に、うん、と返るだけでも勿論いい。返事が無いので、仕方なしに自分で話を続けていく。 「暑いね」 まだ、という話。もう夕暮時でいい加減、日が沈むころだというのに、まだ暑い。それは夏だからだ。お話がぐるぐると同じところを巡る。 それでも永遠に続く訳はなくて、もう2週間もしたら八月の終わり。暦の上では秋になってしまう。いつまでも夏が続く訳はなくて。名残惜しくても、過ぎ去ってしまう。 しみじみと感傷的な気分になっている。秋口に感傷的な気分になるのは分かるけど、今はまだ八月なのに。夏の終わりに寂しくなる気持ちなら、納得できる気はする。それでも、繰り返すようだけど、今はまだ八月の真っ最中だ。 過ぎる季節を惜しんで感傷的になるには、早すぎる時期。時間と共に儚くなってしまう関係を繋ぎとめたくて約束を交わしたのは、あれは、いつの秋のことだったかな、と、頭の片隅で考えていると、視界が翳った。一足先にもう夜が来た、という訳ではなくて、先を歩いていたはずの瑛くんが、いつの間にか立ち止まって、こちらに向き直っていたせいだ。寸でのところで立ち止まって、衝突を免れる。翳った視界に、声が降ってくる。 「あのさ」 一緒に講義室を出て、何かの用を思い出した瑛くんを待って、門の前で待ち合わせ。赤城くんと少し話をして、まるで入れ替わるように戻ってきた瑛くんは、帰り道中、ずっと口数少なで、まとう雰囲気がこじれている。ヘソを曲げているのかな。何に対して考えをこじらせているのか見当がつかない訳じゃないけど、指摘したら、きっと更に機嫌を損ねてしまうだろうから、その件には触らないようにしていた。業を煮やしたのか、瑛くんから話かけてきてくれた。そうして、その台詞と来たら、こんな風だ。 「……あいつと何話してたんだよ」 憮然とした口調でそう言った。一応、確認のために問い返しておく。 「“あいつ”って、赤城くんのこと?」 「そう、赤城」 肯定されて、さっきの会話を思いだそうと試みる。思い返して、顔から火が出そうな心地になる。赤城くんは中々とんでもない爆弾を残していったみたい。と言っても、最初にとんでもない話を持ちかけたのは他でもない、わたしではあったのだけれど……。 ――君は彼のことが本当に好きなんだね。 何かの確認みたいに、言われた。言われた途端、慌ててしまった。幾ら自覚していても、いざ、誰かから指摘されるのは恥かしい。 「……何、赤くなってるんだよ」 いっそう不機嫌な声が降ってきて、我に返った。 「……瑛くんには関係ないでしょ」 誤魔化すように咄嗟に返していた。瑛くんの眉間にくっきり一本、皺が出来た。はっきり、傷付いたような顔をして「ああそう」と顔を背けてしまう。顔を見た瞬間、矢でも打ちこまれたように胸が痛んだ。――ああ、いけない。ひどい切り返しをしてしまった。 背を向けてしまった瑛くんのうしろ姿を見つめて、このうしろ姿は苦手だな、と思った。いつかのように言葉が何も出てこなくなる。今は夏であって、冬ではないのに。 ささやかな諍い、何もかもを台無しにしかねなかった深刻なすれ違い……これも、その一つかな、と思う。思うだけじゃなく、足を動かした。 瑛くんが砂浜につけた足跡の上を歩く。わたしのものより、ずっと大きなそれに、わたしの足はすっぽりと収まって、わたしの足跡は残らない。歩幅も違うから、必然、前のめりにつんのめるような形で追いかけることになった。 一歩、二歩…………このまま歩いても距離は縮まらないから、声を上げた。「瑛くん」 呼んでも返事は無いけど、聞こえてはいるのだろうと思う。ゆるめてくれた速度に追いついて、無防備な右手に左手を伸ばした。瑛くんが眉を顰めたまま、ちらり、とわたしを見た。不審げではあるけど、手を振り払われなかったことに内心安堵して、不機嫌そうな顔に向けて笑いかけた。 「ねえ、瑛くん」 「……何だよ?」 「わたしたち、どうやって出会ったんだっけ?」 瑛くんの眉間の皺がますます深くなった。眉間の辺りから、『何いきなり言い出してんだ』というほどの感情を読み取る。首を傾げて見上げてみる。 「ね、どうだったかな?」 「どうって…………」 「もしかして、忘れちゃった?」 何か言葉を飲み込むようにして瑛くんが口ごもる。ため息をつきながら、まるでぼやくように言う。 「……おまえこそ、どうなんだよ」 「わたし? どうかなあ……」 「おまえなあ……」 「記憶力に自信はないから、瑛くんの口から聞きたいな」 見上げると、気まずそうに視線を逸らされてしまう。右斜め下方向に視線を向けたままの瑛くんの伏せた瞼を見つめる。前髪が海風に揺られて、影がゆらゆらと揺れる。 「それとも、本当に忘れちゃった?」 視線がこっちを向いた。もう一度、ため息。次いで、 「忘れる訳ないだろ」 視線を今度は海と浜辺に巡らせて、瑛くんは言った。 「全部、この海であったことなんだから」 右手と左手で繋がっているだけだった手を、体の前に持ち上げるように両手で握り込まれた。 「……これで勘弁しろよ」 ぼそぼそと照れくさそうに言われた。「そうだね」と頷きを返す。 ――最初に出会ったのも、この海。再会したのも、さよならを言われたのも、迎えに来てくれたのも、全部、この海で起こったことだった。 嬉しいことも、腹立たしいことも、悲しいことも、楽しいことも、たくさんあった。あったことは、あったことで、無かったことには出来ないよ。記憶は薄れてしまうものだから、もしかすると、そのうち忘れてしまうかもしれない。けど、無かったことにはならないと思う。あの日からの今がここに繋がっているように、きっと。 あれから5年も経ったなんて、何だか信じがたい気がする。いつまでも変わらないまま、なんて無理な話。時間が経てば、色んな事が変わってしまう。感情も、多分。あの頃の“好き”と今の“好き”も、もしかしたら、違うものかもしれないけど、まだ、好きだよ。大好きだよ。 「……好きだよ」 向き合った瑛くんに伝えると、瑛くんは言葉に詰まってしまう。がっくりと肩を落として、言う。 「おまえはまた、そういうことをなんの衒いも無く……」 「だって、ほんとうのことだもの」 「そうだとしてもさ、少しくらい照れろよ」 「瑛くんは照れてばかりだよね?」 「……言ったな、この野郎」 瑛くんの下瞼が僅かに、痙攣。あ、マズイ、と流石に後悔した。これはチョップされる……! と、身構えて目を瞑った。 「…………」 「…………」 思いのほか、優しい刺激に閉じた瞼を持ち上げた。あんまり至近距離で目が合って、戸惑う。ぼそり、と瑛くんが言った。 「……仕返し」 「キスが?」 「うん、まあ……そう」 「随分可愛らしい仕返しだね?」 「おまえなあ……」 「ねえ、瑛くん」 「何だよ、まだ何か減らず口が……」 ――あるのか、という台詞に被せるように言った。 「もう一回、してほしいな?」 「………………」 「ほら、さっきは目を瞑ってたし、一瞬だったから……」 言い繕うように続けると、「仕方ないな」という声が降ってきた。それから、距離が縮まった。影が落ちる。反射的に伏せた瞼に、波の金色の輝きが強く焼きつく。……この瞬間を忘れたくないな、と思う。時間が経って、いつか、触れた唇の優しさを思いだせなくなる日が来ても、忘れたくないなあ、と。 握り込んだ手に力を込める。願うような、祈るような心地で。夏の一日は日暮れが遅くて、いつまでも夜が来そうにないと錯覚してしまいそうになる。そんなことはある訳が無くて、いつか、夕日の眩さも夜に溶け込むだろう。けれど、憶えていたい。いつまでも、この夏のことを。大好きな人に、あなたに、出逢えた夏のことを。何度でも。 for "5th Anniversary" *随分と時間がかかってしまった上、「どうしてこうなった」的に酷く夢見がちなお話になってしまいましたが、5周年おめでとうございました……! (1108023) back / next index |