浜に着く頃にはもうだいぶ日も陰って、空の半分が藍色をしていた。水平線にわずかに夕日の名残があるだけ。
バスに揺られているあいだ言葉少なかったあかりが海風にあおられる髪を抑えながらぽつぽつと喋り出す。
「……さっきの、イヤだった訳じゃないんだよ」
どんな爆弾発言か分かったものじゃない。おそるおそる聞き返してみる。
「さっきのって?」
「観覧車で……その……」
「ああ……」
あの“荒療治”。冷静に考えて『それ』しかないとしても、“イヤだった訳じゃない”ってどういうことだ。
「その割にはっきり拒否ってただろ」
忘れもしない。“ダメ”って言われたし。
「それは、急でビックリしたせいだよ!」
あかりが焦ったように言いつくろう。横目にあかりの顔を覗き見る。日暮れ時の、薄暗い光の中でも嘘を言っているようには見えなかった。もしくは、本気で言っているにしても、まだはっきりと自分がどんな迂闊なことを言っているのか自覚していないか、だと思う。
「……おまえのそういうとこって、ホントずるいよな」
ため息と一緒にぼやくと、あかりはきょとんとした顔で「え?」と小首を傾げた。向き直って言う。
「昨日、おまえ言ったよな」
昨日の朝、同じ浜で、まだ夜明け前に聞いたばかりだ。あかりがこんな、一週間付き合ったフリをするなんて、ちょっと普通には考えつかないようなふざけた提案をしてきた発端について。
「俺のことを考えて、それで付き合ったフリなんかしようと思ったんだろ」
「う、うん……」
「……で、確認しとくけど」
「うん?」
「それは友達として、してくれたことなんだよな?」
「えっ」
あかりは交友範囲が広い。女友達も多いし、男友達も多分、多い方なんだと思う。問題は、俺以外の他の男友達にもこんなことをするのか、という話だ。無自覚な上にお人好しなこいつのことだから、その可能性も否めない。
「おまえは、他のヤツが困っていてもこんな真似をするのか?」
恋人のフリとか。今回の場合、滅多にない特殊な状況もあったとは言え、そんなのはゼッタイ嫌だと思う。例え“フリ”でもこんな真似はしてほしくない。……自分でも、身勝手な言い分だとは思うけど。
「わたしは……」
ずっと考え込むようにして目を伏せていたあかりが口を開く。
「分かんないよ……。ただ、今回のことは、佐伯くんの手助けがしたくて、考えたことだし、したことだったんだよ」
「……だからそれは友達として?」
あかりを見て訊くと、あかりはためらいがちに頷いた。
「ああそう……」
「佐伯くん……」
「おまえの気持ちはよく分かった」
本当によく分かった。それで……、
「イタッ!」
思わずチョップしていた。
「おまえはバカだ。大バカだ」
痛そうに頭を撫でさすって抗議の視線を送って寄越すけれど、知るものか。ああ、知るものか。
「…………本当に、バカだ」
「な、なんでそこまで言われなきゃいけないの!?」
チョップをされたあかりは憤慨したように言う。
「そこまで、だって? あのなあ……じゃあ言わせてもらうけどな、おまえ、俺の負担を減らしたくて、こんなバカなことを考えたんだよな?」
「バカなことって……」
「考えたんだよな?」
「うん、考えた、考えました! だから、その右手を下げて!」
「よろしい。で、だ。そんなバカなことを考えたのはなんでだ」
「それは佐伯くんの手助けがしたくて……」
「ああ、そうだな、そう言った。おまえは確かにそう言ったよ。それはさっきも聞いた。おまえは友達を助けたくて、そのために一週間お試し期間って名目で恋人になるなんて言い出したんだ」
「う、うん……」
「これをバカと言わなくてどうする」
言うと、僅かに眉間を顰めて怪訝そうに「どうして?」と言う。思わず目を伏せた。
「……イタッ!」
チョップをして、うつむいた頭をそのままヘッドロックして押さえ込む。
「ここまで言って、まだ分からないのかおまえは!」
「ちょ、痛い、佐伯くん、痛い!」
「うるさい、分かんないおまえが悪い。ちょっと反省しろ」
「全然、分かんないよ!」
じたばたともがく、こげ茶色の頭を見つめる。友達、友達だってさ。こんなに小さいのに? こんなに華奢なのに。こんな風に少しちょっかいをかけたくらいで抵抗も何もできない、全然違う生き物なのに。友達? 悪いけど、そんな風には全然思えない。だから困る。
「バカだ」
こげ茶色の髪の、つむじに向けて言う。
「本当に、本当に大バカだ……」
こいつも、こいつのバカな提案に乗った俺も大バカだ。
でなきゃ、今ごろこんなに胸も痛まない。余計なダメージは食らっていなかっただろう。
結局こうなることは分かっていたのに、分かり切っていたのに、何で。
じたばたともがく頭を解放する。
「もう!」
「いまいち分かってないみたいだから、言うけど」
「?」
「おまえのやったことはこういうことだ。俺に他に女友達がいたとする」
「……いるの?」
「例えばの話! 聞け!」
「う、うん」
「で、その仮の女友達がものすごく困ってるとする。それを見て、俺は何をどう考えたのか分からないけど、助けるために付き合うことにした、とする」
「…………」
「ホント、どういう理屈だ、これ…………理屈は通らないけど、とにかく、付き合ったフリをする。そういう話だよ」
これがどれだけ微妙な話か、分からないのだろうか。片方は全く気にしてなくても、相手は気にしてるかもしれないじゃないか。当人に気はなくても、提案した方は本気になってしまうかもしれないじゃないか、そんなのは、物凄く目も当てらないじゃないか。バカな話じゃないか。
「って、言っても分からないか、お子様には…………」
ぼやいていたら、くい、と袖を引かれた。見ると、ちっぽけな白い手が袖口を掴んでいる。
「……おい」
「…………そんなの、やだ」
ぎゅ、と掴む袖に力が込められた。あかりは、まるで掴んだ袖が命綱みたいな顔をして真剣に見上げている。こいつのこんな表情は初めて見た。無防備で、でも、切実そうな、いっぱいいっぱいな表情……。
「分かんないけど、どうして嫌なのか、うまく説明出来ないけど……でも、嘘でも、佐伯くんがそんなことするの、嫌だよ」
そう言って、目を伏せた。泣きそうな顔で目を伏せた。
「ああもうっ」
掴まれていないほうの手、つまり、右手を持ち上げる。チョップが来ると思ったのか、とっさに肩をすくめたあかりの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「おまえ、ホントずるいよな……」
「佐伯くんは意地悪だと思う……」
「どっちが。ああもう、そんな顔するなよ。例えばの話だろ」
「例えばの話でも嫌だったんだもの」
「ああもう……」
辛そうにうつむいたこげ茶色の頭を抱きしめないでいられた自制心に拍手を送りたい。今はまだ、そういうのは、まだ。ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜるのをやめて、乱れた髪の頭をそっと撫でた。まだ伝えないといけないことがある。
「あかり」
「……なに?」
「最初の日の約束、覚えてるか?」
一週間だけ付き合うフリをして周囲の目を欺く。あかりからこの話を持ちかけられた最初の日にこんなことを言われた。
『一週間だけ、試しに付き合うフリをしてみよう? それでうまくいったら、継続。ダメそうなら、計画失敗。一週間だけなら、周りに宣言しても、きっと誤魔化せるよ』
あれは先週の月曜だった。今日は日曜日。
「今日で一週間経つ訳だけど、それで、俺の回答」
頭を撫でていた手を離す。手のひら越しにあかりの黒目がちな瞳が覗いた。瞬きもしないで見上げている。
「継続はしない。付き合うフリは今日で終わりにする」
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