「1590円になります」

ピッピとテンポ良くバーコードを読み込み熟練のなせる速度でレジ打ちを済ませた店員さんが、買い物籠にビニール袋を乗せながら口にした金額は私の顔を綻ばせるには十分なものだった。
野菜に肉にカレーのルー、それから牛乳に卵にヨーグルトなど…今夜の夕食を含めた当分の食材を買ってこの値段。そして何といっても特筆すべきは98円の特売卵。もう言うことなしだ。
自然と上がってしまう口角を何とか制しながらも財布から千円札を二枚を差し出せば、僅か数秒でお釣りが返ってくるあたり流石だと感心してしまう。

有能なレジ打ちは夕方の混み合った時間帯には本当に有難い。特に今日は卵の特売があった所為か余計に込んでいた気がする。
購入した商品を袋に詰める作業をしながらそんなことを考えているあたり、ここ数年で随分と所帯じみてしまったものだと思わず苦笑。
しかし、ついこの間まで日々の生活費をやり繰りするのに苦しむ貧乏学生時代を過ごしてきたのだ。
恥じらいなんて初めの頃こそあったものの…この4年で節約生活も貧乏性もすっかり板についた。

この春から晴れて社会人になることによって少しは生活水準も向上するだろうか、そんな一抹の不安と期待を胸に抱きながらスーパーをあとにした。
貧乏生活大学時代から今に至るまで長年のつき合いの愛用自転車君のもとまでたどり着き、少し重たいビニール袋を籠に入れる。
少し距離のある大学までの通学や日々の買い物までこの4年間全てにおいて活躍してくれたこともあって流石に自転車もコレだけ使い込めばガタがくるらしく、最近ブレーキの効きが甘いことが一番の問題で…。
買い換えたいなぁとは思うものの、もちろんそんなお金の余裕なんかなくて何とか騙し騙し使い続けてるところだ。


「あ…!」

そんなMY自転車にまたがって自宅への道を走り出そうとしたときだった、ふいに思い出したことの重大さに私は思わず声をあげる。
突然の大声に周りの道行く人々は私へと怪訝そうな視線をおくるが、当の私はそれどころではない…これ以上ないくらい大事な用事を思い出した。
就職が決まり大学を卒業してからというもの此処一ヶ月ほど自由気ままな生活にすっかり慣れ今の今まで忘れていたが、明日は入社式なのだ。

「う…あぁぁー」


口からは何とも情けない声が出て、全身の血の気がサーッとひき何とも言えない焦燥感にかられる。

スーツや必要書類こそ用意してあるものの、それ以外の仕度は何ひとつ済んでいないのだ。

この春新入社員になるというのに入社式を忘れるだなんて、我ながら嫌気が差す。


「と、とりあえず全速力で帰んなきゃ…」


何にしろ一刻も早く自宅へ帰る事が最善策だと悟った私は、ペダルに乗せた足に慌てて力を込め立ちこぎで前へと進みはじめた。
人通りの多い歩道を走っていては時間がかかるので、交通量の少ない通りを選び車道の端のほうを全速力で疾走する。

とはいえ、自宅までの距離を半分くらい過ぎたころになるとずっと立ち漕いで来たままだった所為かだいぶ体力も消耗されてきた。
流石に息も切れてきたので、加速もついていることだし少し足を休めようとサドルに腰を下ろしたまさにその直後。

数メートル先に停まっていた路上駐車の車のドアが、突然開いたのだ。


「えぇ!う、嘘っ!?駄目駄目駄目ぇぇぇ!!」


危険を感じた私が咄嗟にブレーキを握れば、キキキキキィィーーーー!!と鼓膜を突き刺すような騒音がおきた。

続いて、スーツを着た男性がそうとは知らず車から降りてくるのが目に入る。
此れでもかってほどブレーキを強くかけるが長年使い込んだボロ自転車は思うように速度を落としてはくれなくて、私の渾身の叫び声すら空しくブレーキの騒音にかき消される。

道路には都合悪く車が走っていて、右に避けるわけにもいかない。もう駄目だ、と目をギュッと瞑り最後の悪あがきとばかりにさらに強くブレーキを握った。




行く道を遮るもの
(それは、私の運命が変わる数秒前)






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