06


怪しく光る霧のような粉が、景色を霞ませるほどに降り注ぐ。それに気付き頭上を仰げば、そこはいつしか大量の“蛾”が飛び交う異様な光景へと変貌していた。


「火取虫!」
「な、なんでこんなに…!?」


突然現れた数えきれないほどのそれに戸惑いながら眉根を寄せる。どうしてか蛾はどこからともなく現れ続け、まるで二人を取り囲むように際限なく鱗粉を撒き散らしてくるではないか。

一体なにが起こっているのか、困惑するばかりで後ずさることしかできない彩音だったが、不意に意識が遠ざかっていくような感覚に襲われてグラ…と体を傾けた。


「彩音! 息を止めてろっ。気失っちまうぞ!」
「んんっ!?」


言うが早いか犬夜叉はいきなり背後から口を押さえつけてくる。あまりにも粗暴な手に驚いたが、おかげで朦朧としかけていた意識を取り戻すことができてすぐさま自身の手で口元を覆い直した。
気を失いそうになったのは恐らくこの鱗粉のせいだろう。それを察しては必死に息を止め、頭上で忙しなく飛び交う蛾に冷や汗を浮かべた。


「ね、ねえこれ…いつまで止めてればいいの…」
「決まってんだろ。こいつらを片付けるまでだ!」
「無理…そんなに止めてらんない…」
「散魂鉄爪!!」


彩音の声を遮り、勢いよく跳び上がった犬夜叉の爪が弧を描く。それによって数多の蛾が散らされるが全体数はあまりに多く、多少散らしたところで減っているかどうかさえも感じられないほど降り注ぐ鱗粉は薄まる気配を見せなかった。


「ちっ、キリがねえぜ…まとめてたたっ斬ってやる!」


疎ましげにそうこぼす犬夜叉が鉄砕牙を握り締めた、その時だった。一点に集まる蛾の向こうから「ふふふ…」と胡乱げな笑い声が響かされると同時に、なにやら人のような影が浮かんでくる。


「……!?」
「誰かいる…!?」


犬夜叉と彩音は突如現れた何者かの影に驚愕の色を見せる。すると集まっていた蛾が再び散り行き、やがてそこに現れた者の姿が明らかになった。

それは見慣れぬ装いをした、一人の男。真っ白な肌に白群色の髪、晒されている額から蛾のような赤い触角を左右に伸ばすそれは、人間ではない、この辺りに棲む者でもない妖怪であった。
突如現れたその男はこちらを見下すように悠然と虚空に立ちはだかり、静かに犬夜叉へと視線を定めてくる。


「犬夜叉だな…」
「おれはてめえなんか知らねえぞ!」
「我が名は瑪瑙丸(めのうまる)…犬夜叉! 我が剣の洗礼を受けよ!」


大きく名乗り上げた瑪瑙丸は途端に身を翻し剣を構えて見せる。目的は分からないがこの男、犬夜叉に対して明確な殺意をしかと見せつけてきていた。そして高く掲げた剣を容赦なく振り下ろしてくるが、犬夜叉はそれをすんでのところで飛び退きかわしてやる。
――だが突然のことで着地のバランスを崩してしまい、彼は無様にもその場に倒れ込んでしまった。


「くっ」
「うおおっ!」


すかさずその隙を突こうと駆け出した瑪瑙丸が迫る。再び掲げられた剣が振り下ろされると同時に、犬夜叉は鉄砕牙を引き抜き勢いよく振り上げた。その瞬間互いの武器が激しくぶつかり、眩い火花を散らしながら電気のような怪しい光を迸らせる。


「いいぞ! まさしくその牙は破壊の牙!」
「なにい!? わけの分かんねえこと…言ってんじゃねえよっ!」


昂る瑪瑙丸の言葉を理解できぬまま、疎ましげに強く振り払った。瑪瑙丸の目的は一体なにか。それを悟れず警戒し続ける犬夜叉は彩音の前へ着地すると、息を止めたまま小さくうずくまっているその姿へ視線を向けた。


「大丈夫か!?」
「〜〜っ!」


ぶんぶんと首を振るった彩音が突然固まったかと思えば、とうとう「ぷはーっもー無理っ!」と声を上げて思いっきり息を吸い込んだ。その姿に犬夜叉が思わず「あ、バカ!!」と声を荒げたがすでに遅く、今まで必死に堪えていた彩音はこれでもかと言わんばかりに大きな呼吸を繰り返していく。

そんな様子を眺めていた瑪瑙丸は悠然と宙を泳ぎ、呆れに似た笑みを浮かべて見せた。


「人間を守るために使うとは、もったいない…私が役立ててやろう! ありがたく差し出せ!」
「ふざけんなーっ!」


鬼気迫る表情で襲い掛かってくる瑪瑙丸へすぐさま立ち向かう。だが剣を交えたその瞬間、犬夜叉の手元から鉄砕牙が弾き飛ばされて無情にも地面へと突き刺さった。それは犬夜叉から離れたことで妖力を失い、まるで萎びれるかのように元の錆び刀へと戻って行く。


「鉄砕牙を弾き飛ばしやがった!」
「い、犬夜叉っ…!」


武器を失ってしまえばこちらが不利だ。それを悟った彩音がすぐに鉄砕牙の元へ駆け出そうとしたが、体が思うように動いてくれない。それどころか幾度も咳き込む内に視界がぼんやりと掠れ始め、ついには前に踏み出そうとした足が崩れるように折れてしまった。


(っ…ダメ…もう、意識…が…)


手放したくないのに、無情にも意識は遠ざかっていく。それでも必死に抗い手を伸ばそうとしたが、彩音はとうとう糸が切れたかのようにドサリと地面に倒れ伏した。

するとそれに気付いた犬夜叉が「彩音!?」と振り返るも、駆け出そうとしたその道は瑪瑙丸によって阻まれてしまう。これでは彩音の元へ行くことすらできない。それどころか瑪瑙丸の手が彩音へ向けられる可能性だってある。


「(早いとこ片付けねえと、彩音が危ねえ!) 散魂鉄爪!!」


なりふり構っていられなくなった犬夜叉はおもむろに爪を掲げて見せる。だがその瞬間瑪瑙丸の口が開かれ、中から蛾の大群が放たれた。
それは思わず怯んでしまった犬夜叉の一瞬の隙を突くように、周囲を鬱陶しくまとわりついてくる。顔の周りばかり執拗に飛び交う蛾に対し、「くそっ!」と声を荒げた犬夜叉は無造作に爪を振るい続けた。


「くっ。目が霞んできやがった…」


忙しなく飛び交う蛾の鱗粉は徐々に光を奪うよう視界を侵していく。判然としない目の前の景色に苛立ちを覚えながら目を擦っていれば、突如目の前に剣を構えた瑪瑙丸が飛び込んできた。


「くっ!」


一瞬の短い声を漏らしながら、追い込むように何度も振るわれる剣を後ずさりかわしていく。だがわずかに体勢を崩しかけたその瞬間、瑪瑙丸が「ふっ…」と不敵な笑みを浮かべて剣を高く掲げた。


「ぐおっ!」


鈍い音が立てられ、鋭い痛みと衝撃が腹部に走る。腹を一突きで貫かれた犬夜叉は表情を険しくし、容赦なく剣が抜かれると同時にその場へ倒れ込んでしまった。


「(くそっ…体が動かねえ…)」


仰向けに地面へ沈んだまま、腹を貫かれた痛みに目を開けることすらできなくなる。恐らく鱗粉が体中を回ったこともあるのだろう、瞬く間に犬夜叉の意識は遠く離れて行った。


「つまらん…もう気を失ってしまったか…」


剣を納めながら犬夜叉を侮蔑の目で見下す瑪瑙丸はそう吐き捨て、静かに踵を返した。向かったのは地面に刺さったままの鉄砕牙の元。静かにそれへ歩み寄っては、もう一度犬夜叉を蔑むように振り返った。


「ふふふ…犬夜叉…破壊の牙の切れ味、貴様で試させてもらおう…」


そう呟くようにこぼしながら、瑪瑙丸は淡々と鉄砕牙へ手を伸ばす。
――だがその瞬間、鉄砕牙は激しく音を立てるほど凄まじい電撃を走らせた。


「結界…?」


手を放すと同時に治まった電撃は瑪瑙丸の手の平から煙を立ち昇らせる。鉄砕牙に張られた結界が強く破ることもできないのだと悟ると、瑪瑙丸は途端に内なる怒りを湧き上がらせた。

それは瑪瑙丸の長い髪をなびかせ、次第に周囲の木々をざわつかせて荒々しい風を呼び起こす。


「…くっ…」


抑え切れぬ怒りをぶつけるように、咄嗟に手にした剣を犬夜叉へ振り下ろす。だがそれは犬夜叉に触れることなく、彼の髪だけを突き刺してかすかに震えていた。

その時瑪瑙丸の感情を表すように吹き抜けた風が木の葉を散らし、髪を揺らす。それが鎮まるように止んだ時、瑪瑙丸はようやく突き立てた剣を抜き再び鞘へと納めた。


「念の入ったことだ…貴様にしか扱えんということか…」


そう呟く瑪瑙丸は赤く鋭い瞳で犬夜叉を見下ろす。だがそれもやがて静かに滑らされ、背後に横たわる彩音へと向けられた。


「燐蒼牙も手に入る…あの小娘を使うか…」

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